一、一大事の課題

1,我々はみな親鸞聖人より「御同朋よ」と呼びかけられ「さあ同一に念仏申そう」と勧められている者である

大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】①

我々にとっては、これから親鸞聖人と同一の信心を得ることができるかどうかが一大事の課題となってくる。その時、我々は聖人より「御同朋よ」と呼びかけられ、「さあ、同一に念仏申そう」と勧められている者であることを決して忘れないでほしい。

実は、聖人自身が問題とされている信心とは具体的に、

同一に念仏して別の道無きが故に。 遠く通ずるに それ四海の内皆兄弟となすなり(曇鸞『浄土論註』)

として示されている。このことは、「我々はお互いに皆、同一の阿弥陀仏によって『摂取して捨てず』と念ぜられている者であることを私は信ずることができた。だから、いつでもどこでも誰とでも同一に阿弥陀仏を念ずることによって、私は兄弟となることができる」と告げられているのである。信心の人としての聖人の一生は、そのことを証明する一生となっている。
我々もまた、聖人と同一の信心を得るために、「同一に念仏して、四海のうち皆兄弟となすなり」をどこまで明らかにすることができるか、共同生活の現場で問われることになるだろう。

実はこの信心の問題は、我々の誰もが今日まで生きてきて、仲間はずれにされるとか、するとかという体験を持っているにちがいない。その仲間はずれの問題と信心の問題とが、相互に深い関係がある。先日の自己紹介の時に多くの人たちが「声をかけて下さい」とか「友だちになって下さい」とかと語りかけていた。そのことが信心の問題と関係している。

世界中の人が、この私を仲間はずれにして声をかけてくれなくても、友だちになってくれなくても、親鸞聖人が「私はあなたの御同朋である。私をあなたの仲間にしてください」と声をかけ、呼びかけていて下さる。その聖人にどうしても出遇ってもらいたい。もしこのことが成就すれば、みんなは孤独ではなくなる。いつ、どこにあっても阿弥陀仏と親鸞聖人とともに共生し、共存することになり、またそのことから、いつでも、どこでも、誰とでも御同朋となることができるようになる。だからこそ、仲間はずれの問題は克服できる。

我々は、学院生となると同時に、同朋会の会員にもなる。この同朋会は、「我々はお互いに御同朋と呼び合い、御同朋となっていこうという熱い願いから始まり、伝統されてきているものである。そのことをよく分かって、充実したものに、共にしていきたい。  

《平成6年(1994年)4月15日》

2,我々はみな「恐れ」と「罪」の問題を抱えて生きている者である

大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】②

我々は、個人として生きているのではなく、お互いに関係しあいながら共同体社会を作って生きている社会的な存在である。その時、どんな共同体社会でも、全体の願いなり、利害なり、秩序なりに関係して、しなければならない善、してはならない悪などを定め、善をなせば善人として賞し、居場所を与え、悪をなせば、悪人として罰し、その居場所を奪い取ってしまうことがある。そのため我々は、常に他人の目を気にし、社会の評価を気にしながら、自分の居場所がなくならないように、いつでも善い人であろうとして生きることになる。

問題は、その共同体社会における善といい悪といっても、別の共同体社会においては全く逆になっている場合もある。同じ共同体社会においても、事情によってその都度それは変わることことがあって、それはいつでも、どこまでも変わらない善とか悪とかではない。そのことが問題である。しかし、いつでもどこでも変わらないのは、共同体社会において善人は賞されて居場所が与えられ、悪人は罰せられて居場所が奪われることである。

そのため我々は、その都度、善い人であろうとして、昨日までの自分と今日の自分とが、逆なことを言いはじめたり、やりはじめたりして自己矛盾を引きおこすことがある。それは転向の問題とか、裏切りの問題とかになる。結局は、社会的な存在としての我々が、いつでもその共同体社会の中で、仲間はずれにされないで居場所を奪われないで生きていこうとするからである。

そこには、我々の身そのものが抱えている「恐れ」と「罪」の問題がある。「恐れ」の問題については、「五怖畏(ごふい)」として教えられている。一、不活畏(ふかつい)。二、悪名畏(あくみょうい)。三、堕悪道畏(だあくどうい)。四、死畏(しい)。五、大衆威徳畏(だいしゅういとくい)である。

一、の「不活畏」とは経済問題である。経済が行きづまると生活ができなくなるのではないかという恐れのことである。三、の「堕悪道畏」とは、地獄に堕ちはしないかという恐れのことである。

この地獄については、1,我今無所帰 孤独無同伴(我いま帰る所なく孤独にして無同伴なり)。2,幽明処(ゆうみょうしょ)として示されている。我々にとって帰っていける所は、我々を待って迎えてくれる者のいる所である。帰る所が無くなることは、我々を待って迎えてくれる者がいなくなることであり、我々がまったく孤独になったことである。誰も声をかけてくれる者もいなければ、声をかけても返事をしてくれる者もいない。はじめはそうではなく、そういう人たちがいたのだが、その人たちから見捨てられ、仲間はずれにされたのである。それが無所帰孤独の現実である。

このことは我々が、そこに居るにもかかわらず無視されて、居ないことにされることであるから、我々の居る所だけが光の当たらない所とされ、幽冥(やみ)の中に我々が閉じ込められたことになる。このことは生きながら殺されてしまうことで、このことを社会的死という。いちばん残酷ないじめであって、仲間はずれの問題はこのことであり、それが堕悪道畏の問題である。

5、の「大衆威徳畏」とは、皆の目なり評価を気にするのは、自分のことを善い人としているか、悪い人としているのか、そのことに関わる問題で、悪い人としているのではないか、そのことを恐れるのを「悪名畏」という。もし悪人ということであれば、悪道に堕ちることになり、仲間はずれにされ、社会的死に追い込まれてしまうという恐れのことである。

我々は個人として生きているのではなく、事実として社会的存在として生きている者であるから、いつでもこの恐れをかかえて生きている事になる。またその時、転向したり裏切ったりして取り返しのつかない罪を犯すことになってしまう。そういう問題をどのようにして克服できるのか、このことが我々にとっての一大事の課題でもある。

聖人自身はこの問題を「念仏なる者は無碍の一道なり」(歎異抄)として克服されているのだが、我々も聖人と同一の信心を得ることにより、念仏申す者となることによって必ず克服できることを信じて学んでいきたい。このことが克服できなければ、本当に自由に生きることも、縁のある人々と本当に出遇うこともできないから。
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