大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】⑦
成仏道の歩みにおいては、出離生死(しゅっりしょうじ)の問題がいつでも中心となってくる。生まれた者は必ず死んでゆく。それは誰も否定できない。何故ならそれは事実であり、道理であるから。しかし我々の思い、自我意識は自身に頓着するため、それはそうだけれどもとしながら、どうしてもその死を受け入れられない。そのため死の恐れから発狂することもある。それほど我々の無明煩悩は深い。吉凶禍福に迷う者にとって、死は不吉そのものである。そのため長生不死を願望することになる。
柳田国男は、「神道は死を穢れ(ケガレ)として忌む」としている。事実、「死」は忌み言葉として禁句とされてもいる。外道そのものである。命は誰においても生死する命であり、生死一如の命である。しかし我々の自我意識においては、生は良しとして受け入れるが、死は悪(あ)しとして受け入れられない。そのため生死は矛盾してしまう。この問題をどう解決するのか、このことが仏道における根本問題となってくる。
このことは、ただ生と死の問題に限らないで、我々において「こうしたい」という思いと、「そうならない」という現実との間にある、その矛盾をも全て生死の問題として成仏道に関わる問題とされてきている。その問題が解決しない限り、我々はほんとうに安心できないからである。
実はこの生死の問題の解決に関して、その一つとして「どうすれば」というHOW TO方式がある。それはまず、一、自分自身の実力を蓄え、自分の思いが叶うように現実を変えていこうとする。この場合は、やがてということであって、未来にそうなることを信じてやっていくことになる。しかし必ずそうなると言い切れないため、いつでも不安が残ってしまう。自力作善の人の問題もここにあった。
さらに、二、として、絶対的な権威なり権力なりを持つ生き神とか生き仏とかの絶対者を立てて、そのものとの関係において現実が自分の思いに叶うようにになることを期待している。この場合は、その絶対者の力を信ずることだけが自分を安心させることになる。もし不審があれば、たちまち不安になってしまう。そのため狂信的になりがちである。親鸞聖人は、そういう生き神とか、生き仏とか、我々の運命を左右する力を持つと信じられている絶対者を「鬼神」とされ、鬼神の言葉を信ずれば、信じた者がその鬼神の奴隷にされてしまうと批判されている。
さらに聖人は、鬼神について、冥衆(みょうしゅう=目に見えない形)としての鬼神と、顕衆(けんしゅう=目に見える形)としての鬼神を見出し、厳しく批判されている。冥衆としての鬼神は、冥界・魔界を支配する天神地祇(てんじんぢぎ)とか、五道の冥官とかである。顕衆としての鬼神とは、絶対的な政治力、経済力を持つ支配者とか権力者のことである。聖人は「余のひと」(守護・地頭・名主)として示されている。しかしこれらの鬼神の問題は、聖人においては、そういう外なる鬼神とその鬼神を生み出す我々の内なる鬼神をも徹底して批判されている。
三、として、自分の思うようにならない現実の中で、すべてを諦めて絶望的に生きてしまう。この場合は生きながら死人になってしまうことであるから、どのような矛盾も自分で消していくことになる。さらに最後に、四、自殺することである。この場合は自分の思うようにならない現実を、自殺することによって拒否し、自分の思いを通そうとする。
これらの「どうすれば」というHOW TO方式による解決方法は、我々の思い、自我意識を大前提にして現実を変え、その矛盾をなくそうとすることである。しかしそれは、現実を受け入れていないため、どうしてみても現実に心を閉ざしたまま、思いの中だけの幻想になってしまう。このことは仏によって「蠶蚕自縛(さんけんじばく)」として示されている。蚕(かいこ)は口から糸を吐いて自分自身のまわりに繭(まゆ)を作り上げ、その繭の中で自分を閉じ込めながらサナギに変身していく。そのことに喩えているのである。我々の生死の中での生活は、そのようになっていると教え、それが三界六道の世界として示されている。
この世界からどう出離して、今・ここの現実に立ち返り、この現実を生きることになるのか。その我々の問題に対して、仏は出離生死の道として、どうすればというHOW TO方式とは異なる、なぜそうなるのか、その因を問うWHY方式を示して、その生死の問題、矛盾の問題の解決を示されている。それがいつでも大前提となっている。その自我意識こそ問題ありとして問い、その自我意識を離れさせ、生死を平等に受け入れることのできる如来の智慧を、我々に「信心」として与えることによって助けようとされている。
《平成6年(1994年)5月30日》