秋の行事
報恩講がつとまりました。③
【法 話】安藤智彦師(碧南市安専寺住職)
今年度の報恩講、最終日は安藤智彦師にご法話をお願いしました。安藤先生にはいつも年に一回は当山のご法座の法話をお願いしているのですが、報恩講の法話をお願いしたのは初めてだったせいか、「少し緊張しています」と言いながら丁寧にお話しいただきました。
事前に「参詣の皆さんに資料をお配りしようと思うけど、何部くらい用意したらいい?」と連絡下さり、丁寧なレジュメを用意していただき、「ぜひ皆さんに伝えたい大事なことがあるんだ」という熱意をヒシヒシと感じました。
安専寺さんも12月に報恩講がつとまるのですが、冒頭、今年の報恩講をいかに迎えるべきかを考える上で安藤先生がここ十年来、報恩講の準備を始める前に目を通しておられるという文章を紹介して下さいました。
「報恩講と日々のお勤め」
新年を迎えるという一年の区切りは世界中の人々に共通することですが、信仰に生きることによってもう一つの区切りが与えられます。真宗門徒にとってそれは報恩講です。私たち真宗門徒は、日々の生活をお念仏の教えに導かれ、そして一年の結びとして親鸞聖人への報恩謝徳の念をこめて報恩講をお勤めしてきました。ご本山・別院はもとより、全国の寺院、さらにはお講・在家の報恩講と勤められてきました。まさに報恩講の宗門といわれる由縁です。
ところが、その宗門の報恩講に今、参詣者の減少や法要の簡素化などの危うい状況が現れ始めています。そこに何があるのでしょうか。そもそも報恩講は、私たちにまで本願念仏の教えを伝えてくださった宗祖親鸞聖人に対してのお勤めです。報恩講が過去七百有余年にわたり大切に盛大に勤められてきたということは、いつの時代においても親鸞聖人が真宗門徒にとって決して過去の人とはならなかった、今現に説法し続ける存在であったからでしょう。
すると現在は聖人が過去の人になりつつある、言いかえれば私たち真宗門徒がお念仏の教えを拠り所とする生活を失いつつあるということではないでしょうか。このように報恩講が問われているということは、真宗門徒としての日々の生活が問われていることだと思います。改めて私たちの日々の生活の原点は何かと考えてみますと、それは日々のお勤めではないでしょうか。
分かりやすい和語で本願念仏の教えを表現し伝えたいということが、宗祖の「和讃」のご制作の願いだったと思われます。「正信偈・念仏・和讃」という今日まで続く勤行形式を選定されたのは、蓮如上人です。親鸞聖人の願いに呼応されたに違いありません。
平野修先生が「お勤めするということは、親鸞聖人とお付き合いするということです。」と表現されたことがありました。
日々繰り返し正信偈に触れ、いろんな和讃に触れることによって、その言葉に託されたお念仏の教えへのうなずきが少しずつ深められていきます。そしてお勤めの後、その日の生活が始まっていきます。教えが生活の場で味わわれ確かめられていくのです。
日々のお勤め、それは私たちが真宗門徒として育てられていくカリキュラムとも言えるものではないでしょうか。報恩講の荘厳なお勤めも、日々のお勤めの一年間の総決算とも言えます。私たち真宗門徒は、日々のお勤めの意義を今、再認識すべきではないでしょうか。
教学研究所所員 高間重光 氏 『南御堂』十月号より
安藤先生は、中でも平野先生の言葉だという「お勤めするということは、親鸞聖人とお付き合いするということです」という言葉に注目されて、あらためて正信偈・和讃の言葉を日常生活を通して確かめていくという手法を先達たちが発案し、伝統してきたことの凄さを言ってみえました。
以前、教区で藤場俊基先生を講師に招き、伝道研修会という、僧侶向けの学習会をおこなった時、講義の中で「門徒会の研修などで、あなたは、親鸞聖人がもし今ここにおられたとして、胸を張って『私は真宗門徒です』といえますか?と問いを投げかかけることがあります。」というお話をしてみえたのを思い出します。そうすると参加者の皆さんから様々な反応があるそうです、
「私の家は代々浄土真宗の寺の檀家だから、当然私も真宗門徒です」と答える方、また「私は、何年もお念仏の教えを聞かせてもらっていながら、まだ信心がはっきりしない、だから胸を張って真宗門徒だと言い切る自信がありません」という方もあるそうです。最初の方は家の宗教として、浄土真宗を一つと属性と捉えているケース、二番目の方は信心の有無を真宗門徒の条件や資格のように受けとめてみえるわけです。
しかし私(藤場)が思うに、真宗門徒の条件というものがもしあるとするならば、「私はこれからも真宗門徒でありたい」と思っているかどうかではないか、というような内容のお話をされていたことを思い出します。つまり真宗門徒が大切にしてきた価値観や生活様式を自分もまた大切にしたいと思う=(親鸞聖人の教えをこれからも聞き続けていきたい)ということでしょう。
また、曹洞宗の方ですが、南 直哉(みなみ じきさい)氏は、
仏教の言葉で私が心がけているというか、気をつけなきゃいけないのは、その言葉が「自分の経験とか体験の何処に刺さるか」っていうことだと思うんですよ。無常とか無我っていう大きな言葉は特にそうで、辞書を引けばいくらでも書いてあるんです。しかしそれを読んでもたぶん分からないです。分からないと役に立たないです。(NHK『こころの時代』より)
と言われていることも同様だと思います。お勤めによってお聖教の言葉に親しみ、その言葉と自分自身の日常がどう関係しているのか確かめていく、その手がかりとして仏法聴聞ということが大切にされてきたのだろうと思います。私もそういう歩みをしていきたいと思いました
報恩講がつとまりました。②
【法 話】梛野明仁師(西尾市本澄寺住職)
今年も報恩講の中日は梛野(なぎの)師に法話をお願いしました。琵琶の弾き語りを取り入れながらの独特の語りは、古き良き時代の伝統を感じさせる梛野師ならではのスタイルです。魂のこもった熱い語りは、説法獅子吼という言葉がふさわしい迫力でしたが、今回のお話では、来年の春、京都東本願寺でつとまる親鸞聖人誕生850年・立教開宗800年慶讃法要の話題から、梛野師自身が持っている三河門徒の誇りや、後世に本願念仏の教えを伝えてく責任ということを感じさせる内容でした。
また、法話の中では触れられていませんでしたが、この10月20日に亡くなられた太藤 順誼(たいとう よしむ)氏について、法話が終わってからの控え室でいろいろ話してくれました。太藤氏は、梛野師が座長をつとめる「三河すーぱー絵解き座」の創設者・初代座長で西尾市浄徳寺の住職です。かつて本山の企画室長や岡崎教務所長などを歴任されました。
私も観に行きましたが、「三河すーぱー絵解き座」は2005年に開催された愛知万博に、市民プロジェクトの一環として出演されていました。実はそれを企画したのが太藤氏で、私もその当時「こういう形で世間に仏法を語りかけるのか!」とその発想と行動力に驚いたものです。
また昭和63年に三河別院でつとまった親鸞聖人700回御遠忌・三河別院開創100年法要では、『三河の真宗』という厚さが1.5㎝ほどもある立派な装丁の記念誌が発行されているのですが、この本を作ったのが当時、本山の企画室長だった太藤氏でした。宗門内外の研究者の論文はもちろん、この地方を代表する政治家や経済人との座談なども掲載されていて今でも十分読み応えがあります。中でも特筆すべきは作家の司馬遼太郎氏が「蓮如と三河」という一文を寄稿されていることです。梛野師いわく、こういうことができたのも太藤氏ならではの発想だということです。
時間を忘れて思い出を語る梛野師に、太藤氏に対する深い敬愛と報恩の強い意志を感じました。
報恩講がつとまりました。①
11月16日(水)午前9:30~正午
11月17日(木)午前9:30~正午
【法 話】16日 梛野明仁 師(西尾市本澄寺住職)
17日 安藤智彦 師(碧南市安専寺住職)
例年になく温かな晴天が続いた11月中旬、今年も宗祖 親鸞聖人の祥月命日の法要、報恩講がつとまりました。真宗寺院にとって年間最重要のこの行事を迎えるにあたり、当山では約1ヶ月前から準備会を行い、庭師さんに境内の剪定をしてもらいます。その副産物として切り落とされたクロマツの穂を集め、半月ほどかけて松の枝を成形して6杯の花瓶(かひん)に仏華を立てます。世話方さんには本堂や庫裏の幕掛け、お供えのお華束づくり、法要が終わってからは町内全戸へおさがりの餅を配っていただいています。
また境内や建物内の清掃、仏具のおみがき、声明会の皆さんは報恩講のための特別なお勤めの練習を重ねるなど、多くのご門徒の協力なくして報恩講をつとめることはできません。毎年、無事に報恩講がつとまると心底ほっとします。
今回、初日につとまった初逮夜(しょたいや)では、御伝鈔(ごでんしょう)下巻の拝読の後、『親鸞と弁円(べんねん)』という紙芝居を上演しました。これは既製品ではなく、親しくさせていただいている先輩、豊田市桝塚にある願正寺の鶴見榮鳳さんが脚本を書き、安城市赤松町の本楽寺坊守の安藤幸子さんが絵を描いたオリジナルの紙芝居です。
弁円とは御伝鈔の下巻に登場する、現在の茨城県にある板敷山のあたりに住んでいた修験道の行者です。作品では、親鸞聖人を殺そうと企てるも心を翻して弟子になるいきさつがいきいきと表現されていて、子ども向けというよりも大人でも十分見応えのあるストーリー展開で、参詣の皆さんの評判も上々でした。また、絵も素晴らしく人物の表情が豊かに描かれていることにも皆さんが感心されていました。
報恩講の報の字は、「むくいる」ということですが、その内容は、自分が受けた恩を他者にしらせるということだと教えられています。この紙芝居作品は、まさに制作者お二人の報恩の表現といっても過言ではない力作だと思います。この他にも何点かオリジナルの紙芝居を作られているので、おりを見て祥月命日の集いなどで上演してみようと思います。
報恩講の準備や法要の様子をスライドにしてみました。
2022年共同学習会②が開催されました。
【テーマ】わたしの浄土真宗
【法 話】本田康英 師(岡崎市 萬徳寺住職)
おだやかな小春日和となったこの日の午後、共同学習会の第2回目が開催されました。正信偈のおつとめの後、講師の本田康英先生よりお話しいただきました。
本田先生は、名鉄東岡崎駅のすぐ近くにある萬徳寺の住職を務める傍ら、併設する明徳保育園の園長もしておられます。私も所属していた岡崎教区の児童教化連盟の先輩という縁もあって、当山へは毎年4月末におこなっている花まつり誕生会にお招きして、若いお父さん・お母さんに向けた法話をお願いしていました。子どもの発達に合わせた遊びや、絵本・おもちゃの紹介も交えながらのお話はとても楽しく、一緒に参加してくれた子ども達も目を輝かせて聞いてくれていました。今回は「わたしの浄土真宗」という全く違うテーマで法話をお願いしたので、どんな内容になるのか、お話を伺うのを楽しみにしていました。
冒頭、萬徳寺さんが所属する岡崎教区の第1組(そ)でおこなっている「こころの元気塾」という、皆で法話を聞いて座談会をおこなう学習会の中での気になっている点についての話題がありました。それは講師が法話で伝えたい内容がなかなか参加者に伝わらず、座談が全然関係のない話題に終始してしまうということでした。あれこれと会のやり方を工夫したり、司会者が座談の軌道修正をしても全く違う方向に話題が流れてしまうことに、「もう30年以上も参加してくれている人もおられるんですが、まったく時間の無駄になってしまっているようで申し訳なく感じるんです」と言ってみえました。
宝林寺が所属している第15組(そ)でも、以前は同様の企画をおこなっていましたが、その当時の私も本田先生と同様の感想を抱いていたことを思い出しました。15組の場合は、我々スタッフが、そのことに疲れてしまい、ここ10年くらい座談会のある学習会はおこなっていません。(-.-;
本田先生が、参加者と課題の共有がうまくいかず、申し訳ないと感じる背景には、小学生の頃、母親がガンで亡くなる直前、言葉を話すことができなくなる中で、何かを訴えるような眼差しで先生を見つめていた姿や、認知症を患っていた今は亡き祖母や父親とのやり取りの中で、思わず怒りを露わにしてしまった事への痛みなども関係しているという内省は、お聞いている私にも胸に迫るものがありました。これまで花まつり誕生会でお聞きしてきたお話とはまた違った本田先生の一面を見た気がしました。
さらに昨年の7月、先輩からの電話で、大学時代の仲の良かった同期の友だちの一人が亡くなられたことを知らされ、非常にショックを受けたことも大きく影響しているということでした。とにかくお悔やみに行こうと夜に車を飛ばしたら、なんと1時間ほどで到着してしまったことに驚かれたそうです。「どうして僕たちは、会える時に会ってもっと話をしておかなかったんだろうね」と、返事をしてくれないご遺体に向かって涙ながらに語りかけられたそうです。
お話の後半、本田先生は正信偈の中の
遊 煩 悩 林 現 神 通
入 生 死 薗 示 応 化
「煩悩の林に遊んで神通(じんづう)を現じ、生死(しょうじ)の薗(その)に入りて応化(おうげ)を示すといへり」
という一文を板書されました。「煩悩の林」「生死の薗」は私たちが生きる迷いの世界。「神通」とは衆生を救うはたらきを示しています。「応化」は、仏が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れるということです。
私たちが、亡くなった身近な方を仏さまとしていただくということは、「その方が浄土に往生し仏となったと同時に、迷いの世界に苦悩する他の衆生(つまり私)を救う働きをして下さる」という意味になると言っていいでしょう。
「救う働き」と書きましたが、これは「願いを叶えてくれる」とか「問題を解消してくれる」という意味ではありません。私を立ち上がらせ、励まし、歩ませ続ける力だと教えられています。今回のお話をお聞きして、先だって行かれたご両親や同期の友だちが、今も本田先生に「あなたの生きる意味は何か?本当にしたいこと、しなければならないことは何か」と問いかけ、歩みを支える原動力になっているのだなと感じました。
共同学習会①が開催されました。
【テーマ】わたしの浄土真宗
【法 話】松原紗蓮(まつばらしょうれん)師(西尾市 浄土宗浄名寺副住職)
一気に秋の気配が色濃くなったこの日の午後、今年度の共同学習会の第1回目が行われました。この学習会は、お寺の役員さん、世話方さん、婦人会の皆さんなど役職に就いていただいている方々を主な対象として、せっかくお寺と縁を持っていただいてのだから、仏さまの教えに出遇っていただきたいという思いから前住職の頃から続いているものです。
今回は初めての登壇となる浄土宗の尼僧 松原紗蓮さんにご法話をいただきました。「わたしの浄土真宗」というこちらが依頼したテーマに紗蓮さんは「私は、私に生まれてよかった」というサブタイトルをつけて、2歳7ヶ月で西尾市寺津の浄名寺という浄土宗の尼寺に養女として迎えられてからの波瀾万丈の半生を、張りのある声でお話し下さいました。会場とやり取りしながらの和やかな雰囲気と、ドラマチックなお話の展開に聴聞の皆さんもお話に引き込まれてみえました。
また観無量寿経や正信偈の一節など、その時々にご自身の歩みを支えてくれた言葉をスライドにまとめてくださったので、仏語に説得力とリアリティを感じて聞くことができたのではないかと思います。印象深かったのは、自身の出生の事実を知った思春期に七年間 家出をしていた紗蓮さんが、紆余曲折を経てお寺に帰ってきて、その後京都の尼僧堂場で21日間の修行をされていた時のお話でした。ある日、休み時間に着物の下に着る襦袢(じゅばん)を洗濯機に入れて洗おうとした時、先輩の尼僧さんに「あなたのは手縫だから手洗いしなくちゃダメ!」と言われたのだそうです。
既製品ならば洗濯機で洗っても問題ないのですが、手縫のものは洗濯機で洗うと生地が傷むと言うことで慌てて止められたのです。当時20代で着物に詳しくなかった紗蓮さんが、先輩に自分が持ってきた着物をチェックしてもらうと、なんと持ち込まれた2枚の着物と5枚の襦袢は、すべて浄名寺の庵主(あんじゅ)さんが手作りされたものだったのだそうです。
それを見た60代くらいの先輩は「これだけ縫うのにいったいどれくらいの時間と労力がかかるだろう」と涙されたということでした。これらは、紗蓮さんがお寺を開けていた七年間、庵主さんはお参りが終わり、時間が空いた時などに、まだ幼かった紗蓮さんが仏さまに手を合わせていた時のかわいい姿が思い出されて涙があふれてきたそうです。そんな自分を奮い立たせるように、いつか袖を通す時が来るだろうかと思いつつ一針一針縫ってくれたものだったそうです。
またある時、道場の先生が、「紗蓮ちゃん、あなたお月見したことある?」と尋ねられたのだそうです。「天にあるお月様は〝田毎(たごと)の月〟というように、どんな小さな水たまりやタライなんかにもちゃんと一つ一つにその光を映して下さるでしょう。それと同じように阿弥陀さまの他力の光というのは、どんな人にも分け隔てなく照らしてくださるんだよ。この人は善人だから照らすけれども、この人は悪人だから照らさないということはないんだよ。でも紗蓮ちゃん、あんたのタライには蓋がしてあったのちゃうんか?」と優しく諭され、それまでの頑なだった心がほぐされていったというお話は、正信偈の一節
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども 大悲倦(ものう)きことなく常に我を照らしたまう
を彷彿とさせるものがあります。「私だけが苦しいんじゃなかったんだ」と言える紗蓮さんの強さと、出遇いの大切さを思いました。
また、法然上人が詠まれた和歌
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ
に通じるものを感じます。
当日のようす。
秋季永代経法要がつとまりました。
【法 話】櫻部 開 師(西尾市吉良町 正覚寺若院)
暑さも少し和らぎ、本堂に吹き渡る風が気持ちいい晴天となったこの日の午前中、秋季永代経法要がつとまりました。 法話は、櫻部 開先生にお願いしました。お話の冒頭、次の一文を紹介されました。
誠(まこと)に知りぬ。
悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、
愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、
定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、
真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、
恥ずべし、傷むべし、と。
〔『顕浄土真実教行証文類』信巻より(『真宗聖典』251頁)〕
(意訳)
まことに知りました。
悲しいことに、この愚禿親鸞は、
愛欲の広い海に沈み没し、
名利心の大きな山に迷い惑って、
阿弥陀仏の浄土に入ることが約束されていることを喜ばないし、
真実のさとりに近づくことを快しいとも思わない。
恥ずかしいことです、傷ましいことです、と。
これは悲歎述懐といわれる一文ですが、自身のことを愚禿といわれる親鸞聖人が、仏弟子というにはあまりに悲しく嘆かわしい自分のありようを阿弥陀の智慧の光に照らされ、言い当てられた事実を告白しておられるものです。
15年ほど前、当時まだ学生だった櫻部先生が最初にこの言葉を教えられた時、「これがお念仏に救われた親鸞聖人のお言葉です」と言われ「エッ、どこが?」と思われたそうです。どうみても救われた人の言葉に見えなかったからです。私たちが描く救いのイメージは、欲とか迷いから解放されて、安らかで清らかな心持ちになることだと何となく思っていますが、ここには全く逆の表現がしてあるので「これが救われた人の言葉だ」と言われてもピンと来なかったそうです。もちろん他のところで“喜ばしい”という表現がされているところもたくさんあるけれども、敢えてこの一文を救いの言葉だと言われてので余計に印象的だったと言われます。
以下、法話の様子を少し抜粋してご紹介します。
私たちが抱えている根本的な問題は何かと言えば、それは生きる方向が分からないことだと言われるんですね。“愚”という言葉には、蠢く(うごめく)という意味があるということを最近教えられました。春になって暖かくなってくると虫たちが出てきてあっちへ行ったりこっちへ行ったりするように、私たちもこっちへ行ったら幸せになれるのではないかと思ったり、こういうことができるようになれば、より豊かで充実した人生が送れるのではないかと、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと生きる方向を求めて動き回っているというんですね。
蠢くというと、ともすると何か馬鹿にされているように聞こえるかもしれませんが、私たち一人ひとりが、どんな人であっても、豊かになりたいなぁ、幸せになりたいなぁと懸命に求めて生きています。それは何か難しいことを懸命に考えている人がそうだとか、汗水垂らしながら動き回っている人がそうだというのではなく、例えば自室に閉じこもって出てこれないとか、日がな一日やる気が起きずにボーッと過ごしてしまったなぁとか、どんな人であっても皆、一日一日その人なりの姿で幸せになりたい、満足したいと懸命に方向性を求めて生きていることを「蠢いている」と表現されるわけです。私たちは誰もがそういうものを抱えて必死で生きている、そういう姿をこの愚禿という表現から感じるんですね。
名聞利養ということで、少し前になるのですが、ある新聞の記事が目にとまったのでご紹介します。20代の女性の投稿なんですが、評価の世界の中で、自分が価値のある存在であることを示し続けなければならない苦しさについて語られています。
「がんばり続ける将来にゾッとする。」(20代女性)
就職活動中の学生です。何不自由ない生活を送っています。愛ある両親の元で、恵まれた教育環境で育ちました。就職活動もがんばればきっとそれなりの会社に入ることができると思います。
でも将来のことを思うとゾッとします。私はこの方、自分なりではありますががんばって生きてきました。小学生の頃から中学受験の勉強を心身が壊れるまで追い込んでやり、難関校に合格しました。入学後もレベルの高い仲間たちに置いて行かれないように様々なことにチャレンジしました。苦心して有名私立大学に進学した後も、無駄な4年間にならないようにと学業・サークル・バイト・インターン・友人作り・恋愛とがんばってやってきました。それなりにその成果は表れ、その事実には満足しています。
でも楽しかった経験はありましたが、それは思い出の中の割合としては小さく、ほとんどは何となく辛かったという感覚です。いま就職活動という社会に放たれるこのタイミングになって、結局はこれからもがんばって生きていかなければならないのだと気づきました。
いつ頃までがんばれば自分自身に納得し、周囲と比較をやめ生き易くなるのでしょうか?それとも人生とはこういうものなのでしょうか?
いつでも周囲との比較をし続け、ほんとうに自分自身に納得していけない、私はこれでいいんだ。私は私でいいんだと満足していける世界に出遇えないということですよね。
この名聞利養ということ、それからこの記事から思うことは、私たちは裸ではいられないということです。私たちは誰しもが裸のまま生まれてきます。裸で生まれるとは、価値とか、役割とか、立場とか、意味とか、そういうものは一切まとわずにほんとうにそのままで生まれてくるわけです。けれども、生まれたその瞬間から、この子はどの家の子かな、この子は誰の子かな、健康かな、見た目はどうかな、性別はどうかなと、生まれたその瞬間から周りの人たちから評価され、意味づけされるわけです。
今度は物心がついてくると、自分でそういう立場とか価値とかを学んでいって積極的に身につけていこうとします。それは別に、それ自体には問題ないんですけれども、いつしかこの社会にとって意味あるものをどれだけ身につけているかで、生きていて良いのか悪いのかというふうに、他人も自分も裁いていくようになります。だからいつでも自分にはその価値があることを示し続けなければならない、がんばり続けなければならない。
親鸞聖人が、そういう有り様を阿弥陀の智慧の光に照らし出された自分自身の姿として「悲しきかな、愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」と仰ることと重なる気がするんですね。
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
【法 話】羽向智洋 師(西尾市専念寺住職)
【準 備】おみがき奉仕 9月11日(日)午前8:00~
9月に入り残暑が厳しいながらも、爽やかな晴天となったこの日の午前中、婦人会秋季彼岸会がつとまりました。新型コロナウイルスの影響で、午前午後の日程で計画したこの彼岸会もお斎を中止し、暑さを避けるためお勤めだけ本堂でおこない、法話は冷房のきいたお非時場へ移動して聴聞することにしました。役員さん達には仏具のおみがき奉仕や事前の打ち合わせ、仏華も立てていただき、この日を迎えることができました。どうもご苦労さまでした。
羽向先生のお話は、浄土真宗の教えは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄)」ということに尽きるのだけれども、私たちの生きる現実はどうなっているのかという問題提起から始まりました。この「ただ」という文言は、親鸞聖人に『唯信鈔文意』という著作があるように大切な意味を持ちますが、その冒頭に、「唯信鈔」という題について解釈されて、
「唯信鈔」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。
と言われます。「大切なのはお念仏の信心一つ」ということなのですが、私たちの実際は、「そうは言ってもお金がなければなぁ」という現実があります。羽向先生は、確かにそういう面はあるけれども、それがいつの間にか「お金さえあれば何とかなる」に置き換わってしまっているのではないか、確かに私たちは豊になった必然として、お金がなければ生活が回らないということもあるけれども、あくまでお金というのは仕事をして稼いだり物を買ったりする時の道具であって、これさえあれば安心だというものではないと言われます。
お金がすべてという世界は、別の言い方をすれば役に立つものには価値があり、役に立たないものは排除される世界だということでしょう。羽向先生はお話の中で今年6月に公開された『PLAN75』という映画に触れて、現代という時代が向かっている方向について話してくださいました。
あらすじは、超高齢化社会がさらに進んだ近い将来の日本で、倍賞千恵子さんが演じる78歳の一人暮らしの女性が、高齢を理由に職場であるホテルの客室清掃の仕事を辞めさせられ、新たな就職先が見つからず、しかもホテルの寮からも退去させらてしまいます。高齢の一人暮らしの女性が新たに契約できるアパートもないという切羽詰まった状況で、高齢化問題を解決する打開策として、政府が「プラン75」という新たな福祉政策を始めたということを知ります。具体的には、75歳を過ぎた後期高齢者は、行政が用意した施設に入所し、自分がこれでいいというタイミングで安楽死をすることができるというものでした。主人公はこのプランに申し込むのですが、そのことに端を発するさまざまな出来事をドラマにした映画だそうです。
これは以前、羽向先生のお話の中で言われていたのですが、10数年前、あるシンポジウムでパネリストをつとめられたことがあったそうですが、同じくパネリストでアメリカの大学で哲学を専攻している学者の方と一緒になったそうです。控え室で「今アメリカでは、どんなことが哲学の課題として問題になっていますか?」と尋ねたところ、「アメリカでは社会保障の安定化のため、高齢者にいかに合法的に死んでいただくかということが議論されています」という答えが返ってきて仰天したと言われていましたが、この映画はまさしく福祉の手段として安楽死も選べるという施策が行われるということです。
私はこの映画はまだ観ていませんが、ネットで監督で脚本も書かれた早川千絵さんのインタビューを観たところ、作品を作るに当たって高齢者にPLAN75のような制度ができたらどう思うかを尋ねたところ、意外にも肯定的な意見が多かったそうです。その理由として多くの方が「人に迷惑をかけたくない」という同じ言葉を言われたのが印象的だったと言われていました。
これは高齢者だけでなく、日本人の多くが刷り込まれている考え方だと感じます。迷惑をかけたくない、かけられたくないというのは、一見立派で、潔い態度にも見えますが、お互いに相手の利用できる部分は受け入れるけれども、そうでなければ排除されても仕方がないという非常にシビアな世界です。役に立たない人は生きている事さえ疎まれるような殺伐とした空気を感じます。果たしてそれで安心してこの社会で暮らしていけるでしょうか?早川監督はインタビューの最後に「どういう形か分かりませんが、誰もが生きているだけで尊い、そういう社会であって欲しいと思います」と言ってみえました。
休憩時間に控え室で羽向先生が、近くの無住(住職がいない)となったお寺の代務者を引きうけることになったという話を伺いました。このお寺には檀家さんが無く、村で維持しているお寺だそうですが、代務者を引き受ける条件として、代表の方と、年に一度の報恩講をみんなで勤めることと、村の物故者の追弔会を勤めること等を約束してもらったのだそうです。最初はあまり乗り気ではなかったそうですが、二宮金次郎の行実などを例に出しながら、「お寺や神社の維持というようことはあまり役に立たないように見えるけれども、こういうお互いに損得が関係ない部分で協力することができないと、大きな災害などいざ皆で協力することが必要な時にスムーズに連携できないんだということを説いて納得してもらった」と言ってみえたのが印象的でした。
『PLAN75』についての報道。
羽向先生のお話
報恩講がつとまりました。③
【法 話】櫻部 開 師(西尾市正覚寺若院)
報恩講3日目、櫻部先生の法話の一部を掲載します。
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(『高僧和讃』「源信讃」)
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんけれども、私たちというのは自分で計画してこの世に生まれてきたわけではないですよね。気がついたら生まれていた。気がついたらこの私だった。だから私たちは何で生まれてきたのかわからない。なぜ生きているのか分からない。ほんとうに私は何がしたいのか。どこへ向かっているのかまったくわからない。そういう問いというものを誰しもが意識するかしないかは別にして抱えています。ですからこの身の底に、何で生まれてきたのかわからない。なぜ生きているのか分からない。ほんとうに私は何がしたいのか。そういう深い問いと不安というものを抱えています。
そしてその不安と不満を抱えているがゆえに満足したい。安心したいというものを求めています。生まれてきたことを喜びたい。生きている事を喜びたい。私は生まれてきてよかったんだ。ここに居てよかったんだという自分の存在の根拠というものを求めています。そのために私たちは、この時代、この社会の価値あるとされるものをひたすらに求めていきます。一生懸命その時代社会の価値基準というものを身につけていて、今の時代は、今の社会はこういうものが価値ある、こういう人間であれば価値があって認めてもらえる。そういうことを一生懸命身につけていって、能力ある者でありたい、若くありたい、健康でありたい、経済社会で役に立つ者でありたい、身につけて来た価値基準に見合うような自分でありたいと描いた理想に適う何かを必死に求めています。
理想を描いて、それに適うように努力していくということ自体は社会生活をする上で大事なことですし、尊いことだと思います。ただ、ともすれば身につけて来たその価値基準というものが絶対の拠り所になってしまって、何で生まれてきたのか分からない、何で生きているのか分からないという中で、時代社会の価値基準というものを絶対の拠り所として自分の存在の根拠というものをその価値基準に委ねてしまうということになっていきます。
そうすると、できる者でありたいという思いが、できる者でなければならない。役に立つ者でありたいという思いが、役に立つ者でなければならないにいつの間にかすり替わっていってしまうということになっていきます。それは言い換えれば、できない私、経済社会で役に立たないかもしれない私、弱い私、情けない私、間違っている私を嫌悪していく。自分で取り込んできたその価値基準によってみずからを裁いていく、みずからを抑圧していく。
私たちは、みずから取り込んできた価値基準をほんとうのことだと思い込んでいます。それが愚痴(無明)であり、摂取の光明をみることができないということに関わってきます。
摂取の光明みざれども、といいますが、阿弥陀さまの願いというのは摂取不捨、摂(おさ)め取って絶対に捨てない、というんですが、この世界に「あなたのことを見捨てないぞ」という願いが満ちていて、その願いというのが絶え間なく私たちにかけられている。摂取の光明に摂めとられているんですけれども、ところが煩悩に眼(まなこ)をさえられている私たちは、その光明をみることができずにいるといわれるんですね。
つまり、こういう私でなければいけない、かくあらねばならないといつでもその願いに背を向けている、もっといえば逃げてるというんです。こういう自分であれば受けとめてもらえるんじゃないか、ああいう自分であれば受けとめてもらえるんじゃないかと。あるいは価値基準に見合わないようなこんな自分にだけはなりたくない。生きている価値がないと怯えていく。
そのことで今年の5月のことなんですけれども、うちには保育園の年中組に通っている娘がおります。娘と一緒にさあもう寝ようと夜 布団に入ったんです。そうしたらとなりで娘がシクシク シクシクと泣き出すんです。びっくりして「どこか具合が悪いの?」と聞くと「保育園に行きたくない」と言うんですね。
入園当初は少し戸惑っていたようですが、すぐに馴染んで毎日たのしそうに喜んで保育園に通っているように少なくとも私にはみえたので、突然行きたくないと言いだしたもんですから、私もびっくりして理由を聞いたんです。そうしたら娘が「鉄棒がやだ」と言うんですね。
どういうことかというと、今年の5月頃というのは東海地方ではずっと雨が続いたので、保育園では子ども達が運動不足になっちゃいけないということで、室内で鉄棒で遊べるように先生たちが工夫してくれたそうなんですね。
ところがうちの娘は鉄棒が苦手なんです。私がちゃんとやり方を教えてあげないからいけないんですけれども、前回りが怖くてできないんですね。同じ年中組の子たちをみてみると前回りどころか逆上がりまで平気でできちゃう子もたくさんいるんです。でもうちの娘は鉄棒が怖いから雨が降るとその苦手な鉄棒をやらなきゃならないから保育園に行くのが嫌になっちゃったということらしいんですね。
皆さん、もし私の立場だったら娘にどう言いますか?私は「できなくて良いんだよ。できるところまで頑張ってやって、できなかったら先生にできませんといって助けてもらいなさい」と言いました。そう言えば娘は落ち着くかと思ったんです。ところが娘は「うぇ~ん!」と泣きながら「できないなんて、恥ずかしくて言えない!」と言いました。この場合「恥ずかしくて言えない」といのは、自分の気持ちを言葉にするのが恥ずかしいということではなくて、みんなはできるけど、私はできないという、そのことを暴露することが恥ずかしいということなんです。
私はほんとうにびっくりしました。子どもの鉄棒なので他愛ないことのようですけれども、こんな4歳5歳くらいの子でも、他の子はできるのに自分はできないということで劣等感を覚えたり、恥ずかしさを感じたりするんだなぁと思ったんですね。あるいはもう一つは、私は鉄棒に限らず「これだけはできなきゃダメだぞ」なんて一回もいったことないんです。だけど知らず知らず、やっぱりできることは喜んでもらえて、できないことは残念な目で見られてしまうかもしれないというようなことを、もしかしたら感じ取っているのかもしれないなと何か複雑な思いがしまして、結局その夜はどう声をかけて良いか分からなくて「じゃあ明日は行かなくてもいいよ。今日はもう寝よう」といって寝ちゃったんですね。そうしたら次の日は、ケロッとして「お父さん、やっぱり今日は給食がハヤシライスだから保育園に行くよ!」と元気に出かけていきました。
私は、5月のこの出来事で娘に言われた「できないなんて、恥ずかしくて言えない!」という言葉がとても印象に残りました。というのは、自分のことを言い当てられているような気がしたんですね。私は軽い気持ちで「できなくて良いんだよ。できなかったらそう言いなさい」と言いました。だけど、じゃあ私自身どうなのかといえば、家庭、学校、社会の中で、できる者は称讃されて、できなければ何かこう、もしかしたら見捨てられてしまうかもしれないという、そういう眼(まなこ)に怯えながら育ってきたように思うんですね。
だから一生懸命時代社会に価値ある者であろう、強い者であろう、できる者であろう、賢く正しい者であろうとしてきたんです。だからできない者、役に立たないかもしれない者、弱く情けない惨めな自分であるということが暴露されることは、とてもためらいを覚えます。弱く情けない惨めな自分は見捨てられてしまうかもしれない。他人がどうこうという前に、この私がそういう価値基準を取り込んでいますから、そしてすべてをそこに委ねていますから、そういう弱い自分が顕わになることはほんとうに怖いわけです。こんな自分だったら何で生きているのか分からないということになってしまうかもしれない。
だからこそ、自分のその弱さ、できない自分ということが顕わになることを怖れる私ということが、「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども」 阿弥陀さまはいつでもそんなあなたを見捨てないぞ と私に居場所を与えて下さっているんですけれども、でも私は「いやいやそんな私ではだめだ、こういう私でなければいけないんだ」と居場所をみずからはなれ逃げている、そういうことなんじゃないでしょうか。
その上で「摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて 常に我が身をてらすなり」と阿弥陀さまというは、そのような私たちであるからこそ、悲しんで私たちに寄り添って下さっているんですね。
報恩講がつとまりました。②
【法 話】梛野明仁師(西尾市本澄寺住職)
今年も報恩講の二日目は梛野明仁師にご法話をお願いしました。薩摩琵琶を弾き、独特の節回しの節談説教の要素を取り入れつつ語るご法話は、脈々と受け継がれてきた伝統を感じさせる梛野先生ならではのスタイルです。
今回のお話で、特に印象的だったのは「土徳」という言葉です。土徳をネットで調べてみると、「富山県の城端(じょうはな)を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した、柳宗悦(やなぎ むねよし)の造語。 何十世代にもわたって積み重ねられた念仏(感謝しながら南無阿弥陀仏と称えること)の生活、ありがたいと感謝しあう人々の心が風土になり、目に見えない力としてまた人々を育てる」という記述がありました。
- 三河地方もまたお念仏の土徳に恵まれた土地柄と言えますが、その源流をたどれば、50歳代で親鸞聖人が関東においてお念仏の教えの集大成『教行信証』の草稿(坂東本)を作り、60歳頃『教行信証』を完成させるため京都の寺々に保管されている参考文献を参照するため帰洛する途上、岡崎の地に立ち寄りました。その時に桑子城主安藤薩摩守信平が聖人を城内に招いて説法を受けて帰依したことが始まりといわれています。現在、この場所は妙源寺柳堂として国の重要文化財となっています。
聞法ということでいえば、私たちの聞き方ということが問われてくるんです。私たちは日頃の暮らしの中で、聞いて分かるということを当たり前にしているから、ちょっと聞法すると「分からん分からん」というでしょう。でも本当はスッと聞いてパッと分かるような話は、たいした話じゃないんです。その程度のことなら、こんな報恩講なんか勤めんでもいいんじゃないですか。聞いても聞いても聞き尽くせない。味わっても味わっても味わい尽くせない。生涯を掛けて向き合っていくような大きな課題なんです。そうじゃないですか。
先日、Aさんという檀家さんの娘さんで47歳で亡くなられた方の四七日法要がありました。おつとめが終わって短い法話をした後、70歳代のAさんが「あんたの話を聞いっとったら、35年も昔のことを思い出した」と言われました。実は35年前にお母さんの妹、Aさんからしたら叔母さんが亡くなったそうなんですね。その時にお母さんと一緒に今際の病室に立ち会ったそうなんです。そうしたら、お母さんはこれから亡くなっていく自分の妹に対して「お念仏を申しましょう」と言ったそうなんです。皆さんどうですか?近しい人が亡くなって行く時にどういう言葉をかけますか?ナンマンダブツと言えますか?
お母さんは、いよいよ亡くなって行く妹に「お念仏申しましょう」と言い、妹もお念仏をしたそうなんです。Aさんは、お母さんと叔母さんは姉妹だからいいけれども、叔母さんの家族はその様子を見てどう思っただろうか。普通だったら「こんな時に縁起でもない!」と思うんじゃないだろうかと、当時気に掛かっておったことを思い出したというんですね。35年前、母親が自分の妹に言ったことが、いま47歳の自分の娘を亡くして、このことが沸々と沸き上がってきたというんでしょう。
私たちは聞法して、生活の中に仏法を取り入れて生活に役立てていこうとしとるでしょう。でもそういうことじゃないんです。念仏生活というのは、ナンマンダブツ(生まれてきてよかったと言えるような生き方をして欲しいという阿弥陀如来の呼びかけ)の中に我が人生が問われてくるんです。これが真宗の生活なんです。これが報恩講なんですよ。
お念仏の生活を通して独特の精神風土を育んできた先人たち。慎ましいながらも、生まれた意義と生きる喜びを見出すことを生涯のテーマとして生きた先人たちの息づかいを感じさせてくれる一時でした。
音声のみですが、梛野先生の法話を聞くことができます。
報恩講がつとまりました。①
11月16日(火)午前9:30~正午
11月17日(水)午前9:30~正午
【法 話】16日 梛野明仁 師(西尾市本澄寺住職)
17日 櫻部 開 師(西尾市正覚寺若院)
11月中旬とは思えないほど温かな小春日和となったこの三日間、報恩講がつとまりました。昨年に続きコロナウイルスの影響で、日程を半日としお斎の提供を見合わせての開催となりましたが、なんとか無事におつとめすることができました。10月28日に報恩講準備会をおこなってから、役職者の方を中心に半月ほどいろいろと準備を重ねて下さり今年も年間最重要の行事を終えることができてホッとしています。
今年の報恩講では、一つ嬉しいことがありました。これまで報恩講の仏華は、もう40年近く携わっていただいている沓名美代さんを中心として、3名で立てていただいていましたが、今年から新たに4名も新メンバーが加わって下さいました。
これまでにも何回か新メンバーにお誘いしたことがあるのですが、お花立てというより、電動ドリルや金槌も用いるまるで大工さんの現場のような作業なので、まずこういう作業が嫌いでない方でないと難しいですし、好きな方でも、最近は定年を過ぎても再雇用などで仕事をしてみえたり、他の役を引きうけているために時間が取れない方も多いです。また健康上の問題を理由に断られたこともありました。さらにチームワークが大事なので、協調性がある穏やかな人柄の方が望ましいということで、なかなか新メンバーを確保できなかったのですが、今年は4人もメンバーに加わっていただけたのは、本当に有り難いです。新メンバーの方たちは、最初は少し不安そうにされていましたが、先輩方の的確になアドバイスのおかげで、見事な仏華が完成し、安堵の表情を浮かべてみえました。
また、報恩講初日には、婦人会役員さんと坊守で大型紙芝居の上演をしてもらいました。こちらも何回か練習のためにお寺に足を運んでいただき、立派に演じきって下さいました。
他にも、仏具のおみがきや清掃奉仕、寺世話方さんには本堂や庫裏の幕掛けやお華束づくりをしていいただきました。ありがとうございました。準備や法要の様子を役員さんに写真をたくさん撮っていただいたので、リンクよりご覧ください。
法話については、今年もたいへん熱のこもったお話を二人の講師よりいただきました。あまりに素晴らしかったので法話については、またあらためてご報告させていただきたいと思います。
●リンク 報恩講アルバム
●動 画
こちらの動画は限定公開です。
共同学習会の第2回目が開催されました。
【法 話】伊藤基之 師(安城市歴史博物館学芸員)
小春日和となったこの日の午後、共同学習会が開催されました。今年は明治4年(1871年)に宝林寺のすぐ近くで起きた“大浜騒動”からちょうど150年にあたります。そこで廃仏毀釈はなぜ行われたか、また大浜騒動の歴史的意義についてお聞きしたいと思い、安城市歴史博物館の学芸員さんを講師に招き2回にわたりお話を伺うというのが今回の企画です。今回はその2回目、「大浜騒動について」という講題のもとお話をいただきました。
伊藤基之先生は、今回もレジュメとスライドを使い丁寧にお話し下さいました。住職になってから、大浜騒動についてはずっと関心を持ち続けています。当山のすぐ近くで起こった事件であり、政府の宗教政策に影響を与えたということ。私(15世住職)の曾祖父にあたる鈴木抱慧(12世住職)もこの事件に関与しているからというのが大きな理由です。
ところが、事件から150年しか経っておらず、まさにこの地元で起こった事件の割りには、ご門徒の間や、教区内であまり話題になることもなく、どこかこの事件をタブー視するような雰囲気を感じ、素朴になぜだろうと疑問を持っていました。今回の伊藤先生のお話をお聞きして、そういう事情があったのかと納得する部分が幾つもありました。
伊藤先生は「明治維新といっても、実際は多くの民衆に支持された市民革命ではなく、長州・薩摩の武士たちによるクーデターで、この時点では、当時の多くの日本人は、彼らがまさかこのまま為政者としてこの国に君臨し続けるは思っていなかっただろう」といわれます。本格的に新政府に安定感が出てくるのは明治22年(1889年)に明治憲法が発布され、伊藤博文が初代の首相になる頃だったそうです。
大河ドラマで、幕末から明治維新の時代はよく取り上げられて、私も感情移入して観ていたので、何となく新政府は多くの人に受け入れられていたように思っていたのですが、史料から読み取れる事実は少しちがうというのは新鮮な驚きでした。
大浜騒動をネットで検索すると、例えばこのようにまとめられています。
大浜騒動とは、明治新政府の神道国教化政策への不満とキリスト教浸透に対する危機感を抱いた東本願寺下の寺院僧侶と門徒の集団が、大浜(現碧南市)周辺を飛び地支配していた上総国菊間藩(現千葉県市原市)の役人と鷲塚(現碧南市)で交渉した際、役人1人を殺害した事件である。名称は、藩の出張所が大浜にあったことに由来する。鷲塚騒動、菊間藩事件とも呼ばれる。(幽囚日誌 文化遺産オンライン)
私も大雑把に上記のように理解していたのですが、伊藤先生は「大浜騒動は、明治政府の宗教政策に対する真宗門徒による護法一揆という一面だけで捉えるのは矮小化ではないか」といわれます。
新政府が政権を安定化させるために天皇の権威を利用して国家神道を立てざるを得なかった事情や、地方役人が政府の意向を忖度して法令以上に地域住民に強権的にふるまったことによる地域住民の不満。急激な社会の変化に対する不安。幕府から維新政府に権力が委譲される中、政府を刺激したくない東本願寺の立場や、キリスト教(耶蘇教)に檀信徒を奪われるのではないかという焦りなど、様々な伏線が交錯していたということを史料で示して下さいました。また「大浜に耶蘇が出た!」というデマが農民たちに広がったことが大規模な暴動となってしまったことの大きな要因だったことは特筆すべきで、ネット時代といわれる現在でも十分起こりうることだと思いました。
また史料によると、当時は各藩の所領が村単位でモザイクのように入り組んでいたそうです。今回初めて知ったのですが当山がある根崎村は静岡藩の所領だったようです。大浜騒動に直接関わったのは、むしろ菊間藩所領の僧侶や門徒よりも、岡崎など他の藩の人々が多かったというのも意外でした。
これらの人々が関わった理由は、一つは若手僧侶のグループ三河護法会の会所が岡﨑市矢作の暮戸にあったこと。もう一つは菊間藩のような強権的な支配を自分たちも受けるのではないかという恐れが、彼らをそうさせたのだろうということでした。
ほかの真宗寺院も決して一枚岩ではありませんでした。度を超した役人の要求に対して積極的に抵抗する急進派、対話を指向する談判派、慎重派、反対派、静観派など、当時どの寺がどういう態度でこの事態に臨んだかを示す史料が残っています。さらに旧来の三河三ヶ寺との本末関係を重視するグループと、京都の本山(護法場)で教育を受けたいわばエリートを中心とした新興のグループとの微妙な関係もあったようです。
史料にはいま現在も存在するお寺の名前が出ており、事件から150年経っているとはいえ、当山にしても、まだ曾祖父の時代ということで歴史というにはまだまだ生々しく、本格的な検証というのは今後の課題となるだろうと言われていました。
レジュメの「大浜騒動糾弾人名表」という一覧には、大浜騒動に関わった僧侶や門徒が、事件後どういう処分を受けたかということが記載されています。斬罪(死刑)となった石川台嶺(小川村 蓮泉寺)は29歳、獄死した三河護法会総監の星川法沢(高取村 専修坊)は38歳、懲役1年半の実刑となった当山の鈴木抱慧は22歳でした。40名以上の僧侶が名を連ねていますが、多くは20代、30代で中には10代の住職の名もあります。
実は幕末の志士たちも非常に短命で、吉田松陰は29歳、坂本龍馬は31歳、高杉晋作は27歳でこの世を去っています。貫禄があるイメージの西郷隆盛でさえ49歳と意外と若くして亡くなっていることに驚かされます。
幕末から明治維新の時代、多くの若者によって大きな変革が成し遂げられました。仏教界においては、他宗派が新政府に従う中、ここ三河の地に明治政府の宗教政策に一石を投じる役目を果たした若い僧侶や門徒たちがいたことは、もっと知られてもいいと思います。
●関連リンク
歴史逍遙『しばやんの日々』
同朋大学「三河大浜騒動150年」展オンライン解説
共同学習会の第1回目が開催されました。
【お 話】伊藤基之 師(安城市歴史博物館学芸員)
おだやかな秋晴れとなったこの日の午後、共同学習会の第1回目が開催されました。今年は明治4年(1871年)に宝林寺のすぐ近くで起きた“大浜騒動”からちょうど150年にあたります。そこで廃仏毀釈はなぜ行われたか、また大浜騒動の歴史的意義についてお聞きしたいと思い、安城市歴史博物館の学芸員さんを講師に招き2回にわたりお話を伺います。今回はその1回目、「廃仏毀釈について」という講題のもとお話をいただきました。
事前にホームページやFacebookで今回の学習会のご案内をしたこともあってか、ふだんあまりお寺のご法座にみえない方や、市外の一般の方なども参加されていました。講師の伊藤先生は多くの資料をスライドを使って解説するなど熱のこもった内容でした。
「廃仏毀釈」という言葉は知っていても、なぜ起こったかや、その破壊の規模は案外知られていないのではないかと思います。明治新政府は、新しい国作りをしていくにあたり天皇を中心とした、古代の祭政一致体制を目指そうと企図しました。(王政復古)
そして仏教伝来(6世紀なかば頃)から江戸時代まで、神社の中に仏像が安置されているなど仏教と神道が混交していた「神仏習合」状態から、「外国から来た神」を意味する蕃神(ばんしん)である仏を、神社から切り離して国家神道を打ち立てる目的で、神仏判然令(神仏分離令)を発出します。
伊藤先生は、「新政府から出されたのは、神社の中から仏像を取り出し、外国の文化に触れる前の日本に帰って神武天皇の時代のように祭政一致の体制にしたいという内容の法令だったのに、地域によっては、お寺や仏像を大規模に破壊するところまでいってしまいました。この暴挙は、2001年にタリバンによって行われたバーミヤンの石仏爆破と同じ質を持っています」といわれます。バーミヤンの悲劇は異教徒によるものですが、日本の廃仏毀釈は、先祖が大切にしてきた心の拠り所や、貴重な文化財を同じ日本人が破壊したということですから、より罪深いと思います。自国の精神性を象徴するような文化財を政府の方針によって大規模に破壊してしまったことは、明治以来続く政府にとっても、さすがに後ろめたいためタブーとなっているという一面があると思います。
お話では、廃仏毀釈が引き起こされた背景には、いくつもの複雑な事情があったのではということで、代表的な4つの理由を挙げてくださいました。
1,復古的・革命的機運と明治政府の方針。
2,国学の勃興と廃物思想を背景とするもの
3,江戸幕府の間接統治のシステムとしての寺請制度下において、
管理・統制の実行者として与えられた特権に安住した仏教界へ
の神官・庶民の反感。
4,地方官が寺院財産の収行を狙ってのこと。
(※【収行】(しゅこう・しゅうこう)〘名〙 領地などを権力が取りあげること。)
先生は、この一つずつに解説をして下さいましたが、嫉妬や反感、政治的立場や不公平感、報復など人間臭い感情の発露が重層的に作用した結果、起こされた悲劇といっていいのかも知れません。
もう一つ思ったのは、廃仏毀釈の動きというのは、第二次大戦当時、日本民族が全体主義に一気に巻き込まれていくさまを想起させます。日本民族は、民衆の熱狂によって為政者のコントロールも不能になっていくような狂気をはらんでいるのではないかと感じます。
次回に行われる第2回では、大浜騒動について取り上げますが、私は、こういう護法一揆が、浄土真宗、とりわけ大谷派が圧倒的に多いのはなぜかと疑問に思っていました。今回のお話で一つ「そういうことか!」と思わされたことがあります。それは、大谷派が廃仏毀釈に対して抵抗する事情についてです。
もともと東本願寺(大谷派)は徳川家康から現在の本山がある烏丸七条の土地を寄進されたことから始まっていることもあって、江戸時代は徳川幕府とは良好な関係にありました。明治維新となり、幕府と親しかったことは却って新政府にとっては目障りだったようです。教団上層部はこの時期、自ら進んで北海道開拓などで新政府に協力するなど恭順の意をあらわしていましたが、宗教政策についての新政府の意向が正しく大谷派には伝わっていなかったのではないかというのです。
手柄を急いだ一部の役人が、仏教に対する締め付けを強行する場合もあったようですが、「そもそも神仏判然令は仏教を排斥するまでの意図はない」ということが、教団内で十分共有されていなかったため、役人と交渉する材料を持ち合わせておらず一斉蜂起という形にならざるを得なかったのではないかというのは、なるほどと思いました。
一方、江戸時代は幕府からは冷遇されていた西本願寺ですが、後に新政府の要職を占めることになる長州藩とはもともと良好な関係だったことが幸いしました。西本願寺教団の重鎮、島地黙雷らが新政府と関わりがあったため、その動向をいち早く察知することができたようです。その結果、神仏判然令は仏教を排斥するまでの意図はないことが広く教団内で共有されたたために、あまり摩擦が起こらなかったのだそうです。これは歴史の皮肉ですが、やはり情報は大事ですね。
また、廃仏毀釈の具体例としては、奈良の興福寺は、広大な寺地を隣接する春日大社に譲り、現在国宝となっている阿修羅像や無著菩薩像なども雨ざらしにして放置していたそうです。僧侶たちは還俗して神官になったり、僧侶の責任者達も還俗し華族になるなど、仏教に対する責任感や僧侶としてのプライドはないのかと言いたくなるような体たらくだったそうです。法然上人、親鸞聖人の当時、吉水教団が解体されるきっかけの一つとなった興福寺奏状を朝廷に提出した奈良の旧仏教の代表格が、明治維新当時にはなんともお粗末な対応をしたことは、個人的にはがっかりさせられた一件ではあります。(-_-;)
第2回目は11月6日(土)午後2時からです。ぜひご参加ください。<(_ _)>
教化委員会・報恩講準備会を行いました。
【期 日】2021年10月14日(木)午後7:00~8:00
【報恩講準備会】
【期 日】2021年10月28日(木)午後7:00~8:00
秋の行事に向けて、寺の役職者の皆さんに出ていただいて会合を行いました。新型コロナウイルスの新規感染者が急激に減ってきているので、この秋の行事は予定の期日で開催できそうです。
報恩講については、今回もお斎(食事)の提供は見合わせて半日だけに縮小しての開催ですが、今年は明るい話題もありました。これまで報恩講の仏華を3人の専任の方にお願いしていたのですが、それぞれ高齢になってきたり健康状態に不安を抱えるようになってきて、毎年、今年は仏華を無事に立てることができるだろうかと心配していました。今年は女性2人を含む5人の方が新たに仏華のグループに加わっていただけることになりました。この10月31日より、庭師さんに剪定したもらった、玄関横の大松の松葉の採集から作業を始めていただきます。
よろしくお願いします!!
秋季永代経法要
【法 話】羽向智洋 師(西尾市専念寺住職)
暑さも少し和らぎ、本堂に吹き渡る風が気持ちいい晴天となったこの日の午前中、秋季永代経法要がつとまりました。今回の法話は、羽向智洋先生にお願いしました。先生の法話をお聞きするといつも感じるのですが、社会の動きや、思いどおりにならない人間模様などにも丁寧に目を配り、独自の言葉でお念仏の教えを表現されるので、「ああ、そういう見方もあるかぁ」と新たな視点を与えられることが度々あります。
仏教とはどういう教えかを判別する基準として四法印(しほういん)という考え方があります。それは一切皆苦(いっさいかいく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)という四つの旗印です。世の中には仏教の体裁をとったさまざまな教えがありますが、この4つの旗印に合致しないものは、仏教とはいえないということだと思います。
この四法印はそれぞれが独立した教えではなくて相互に関係しているということを言われます。一切皆苦とは、世の中のことは、さまざまな条件によって起こったり滅したりしているので、決して自分の思い通りにならないということ。諸行無常とは、あらゆることは移ろいゆく。今だけ我慢していれば思い通りの結果が訪れると目論んでいても、少し条件が変わっただけで、まったく別の結果となり却って苦しめられることもある。諸法無我は、あらゆる存在は相互に影響を与え合っているので、自分一人だけの幸福ということはあり得ない。涅槃寂静とは、先に挙げた三つがきちんと私の中で肚落ちすれば、安心して生きていけるということを、ご自身の生い立ちや、コロナ禍の生活の中で気づかされたこととして話してくださいました。
またお話の中で、一昨年、満100歳で亡くなった日本画家 堀文子さんのことを取り上げてみえました。私は知らなかったのですが、彼女は日本の女性画家の草分け的存在で、82歳の時、幻の高山植物ブルー・ポピーを見たいということでネパールへ出かけて、ヒマラヤ山脈を踏破するなど、生涯好奇心と行動力を持ち続けた方だったそうです。
83歳で解離性動脈瘤という大病を患って、あちこち出かけることができなくなってからは、子どもの頃に顕微鏡で観察して、その美しさに感動した微生物たちの世界に再び興味を引かれ、それを絵のテーマに選び、精力的に創作を続けられたのだそうです。
羽向先生が、彼女の97歳の時の言葉として紹介された、次の言葉が印象的でした。
何も持たないことは、すべてを持っていることなんだ。そのことを身体で感じ、私の心は震えました。
この言葉を聞き、私は親鸞聖人が阿弥陀について書き記した言葉を思い出しました。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。 『一念多念文意』
言葉どおり受け取ると、法身(ほっしん)つまり阿弥陀如来は、「色もなく形もない」=私たちの目では見ることができない。「こころもおよばれず、ことばもたえたり」=心に思うことも言葉で言い表すこともできないということですから、全く取りつく島もないようにも思えます。しかしこれは私たちが予想したような形では、阿弥陀を見たり、理解することはできないということを表している表現だと思います。
阿弥陀というのは、存在ではなく“はたらき”だと教えられています。つまり私たちが想像するようにどこかに金ピカの仏像のような姿をした運命の支配者がいるということではなくて、私たちが経験する、様々な人との出遇いや、あらゆる出来事、また映画や物語など、あらゆるエピソードを通して、そのはたらきが表現されているということではないでしょうか。
阿弥陀とは、現代語に置き換えると「無条件」です。そのはたらきの影響を受けない者は一人もいない。 そのはたらきが摂取不捨(あなたをほっとけない)だというのは、誰もが「人間に生まれてよかった!私が私として生まれてきたことをよろこびたい!」という深い願いを持っていることに目覚めさせ、生きる力を湧き起こさせるということではないかと思います。
私たちは日ごろ、若さ、健康、お金、権力、家族などを頼りとして日々の生活を送っています。しかし諸行無常の教えのとおり、永遠に変わらない確かなものはないのです。堀文子さんは、仏教に縁があったわけではないようですが、そのことを生涯をかけて確かめ、最後まで生きる意欲を失わずに生きた方なんだろうと思いました。
彼女に興味が湧いてきたので、図書館で彼女の関連の本を幾つか借り、これから読んでみようと思っています。
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
【法 話】緊急事態宣言が発出されていたため中止
【準 備】おみがき奉仕 9月11日(土)午前8:00~
【担 当】婦人会21~27班(西根)の連絡員の皆さん
暑さも少し和らぎ、雨模様となったこの日の午前中、婦人会秋季彼岸会がつとまりました。ここ愛知県では、新型コロナウイルス感染症の第5波の影響で8月27日から9月30まで緊急事態宣言が発出されたため、婦人会役員の皆さんと相談して、法話は中止として、婦人会役員さんなど少人数の方に参加いただき、おつとめだけという形で行いました。なぜ法要自体を中止しなかったかというと、この婦人会秋季彼岸会は、この春の彼岸会以降に亡くなった物故会員の追弔会を兼ねているためです。今回あらたに4名の方の法名を法名軸に加えさせていただきました。
また彼岸会に先だって、秋に行われるさまざまな行事にむけて9月11日(土)の朝に仏具のおみがき奉仕もしていただきました。婦人会役員の皆さん、担当の皆さん、どうもありがとうございました。
報恩講がつとまりました。
【法話】16日 梛野明仁 師(西尾市本澄寺住職)
17日 浄光法義 師(石川県津幡町善西寺若院)
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、日程を半日に短縮し、お斎の提供も見送ることとして計画した今年の報恩講が、三日間の日程で無事つとめることがでしました。役員・世話方・婦人会の皆さんをはじめ、宝林寺に関わる多くの皆さまにご協力いただき、誠にありがとうございました。
これまで当たり前のように年中行事として報恩講をつとめてきましたが、700年以上続く浄土真宗の歴史をひもとけば、何度も飢饉・疫病・天災・戦争などにたびたび見舞われてきた事実に、あらためて注目させられます。そしてその都度、自身が生まれた意義を問う念仏の教えを聞き開き、受け継いで来られた先人たちの思いや苦労が偲ばれ、これも偏に未来の人々にこの教えを伝えなければという強い意志があったということだと知らされます。
しかし親鸞聖人、蓮如上人はじめ、多くの念仏者の先達も、自分の力ではどうしようもない災禍に直面した時、決して自信満々に人々を鼓舞していたわけではないと思います。おそらくオロオロしながら、その時々に置かれている状況の中で、自分のできることを手探りでやっていたのではないかと想像します。
報恩講初日、NHKの『歴史秘話ヒストリア スーダラ節が生まれた』を録画したものを上映しました。その中で、世間に流布しているイメージとは違って生真面目な性格の植木等が、スーダラ節の楽曲ができあがってきた時、自堕落なサラリーマンのありようを描いたこの歌の歌詞に反発して、当初 歌うことを拒否していたというエピソードがありました。
そこで植木は、三重県の浄土真宗の寺の住職をしていたこともある尊敬する父、徹誠(てつじょう)に相談をしに行きます。「わかっちゃいるけど やめられねぇ」というフレーズに、徹誠は「素晴らしい歌だ!我が宗祖 親鸞聖人の生き方に通じるものがある」と絶賛し、そのことをうけて半信半疑ながらもレコーディングに臨む植木のすがたに胸を衝かれるものがありました。
コミカルなメロディーのスーダラ節が大ヒットとなったのはご承知のとおりですが、ヒットした理由は、多くの人々がこの曲のフレーズに、高度成長という大きな時代社会の流れの中で、一個の歯車として生きるより他ない者たちにそっと寄りそう優しさを感じ取っていたからかもしれません。参詣の皆さんもこの歌の誕生に、実は親鸞聖人の影響があったことを知り、驚きと感動を味わっておられたようです。
こうしてみると、植木等も、タレントという姿をとった念仏者であったと言っていいのではないかと思います。
私も真宗の流れを汲む者の一人として、今回のこのコロナウイルスの流行を縁として、事実を事実として受け入れ、今できることに取り組んでいく勇気を持ちたいと思います。
報恩講の準備と法要の様子をスライドにしてみました。
梛野明仁 師のご法話① (11/16)
梛野明仁 師のご法話② (11/16)
※こちらは音声のみです。
報恩講に向けて、おみがき・清掃奉仕をしていただきました。
【おみがき】婦人会役員・南根・西根の連絡員さん
【清掃奉仕】7・8・9班の皆さん
雨が心配されましたが、予報より雨の降り出すのが遅れて曇りとなったこの日の朝、報恩講に向けて仏具のおみがきと、清掃奉仕をしていただきました。おみがきでは、新型コロナウイルス対策で、いつもより距離を広めにとってもらい、マスクを着用しての作業となりました。
清掃奉仕では、毎月、班毎の当番制で順番におこなっていただいている屋外のトイレ清掃を、この報恩講前の清掃奉仕に振り替えて12月・1月・2月の担当の皆さんに出ていただきました。比較的に人数の多い班の皆さんだったので、境内の草取りとお非時場や庫裏のガラス拭きもあっという間に仕上げていただきました。各担当の皆さま、ありがとうございました。<(_ _)>
この後は、仏華を立て、須弥盛り華束(しゅみもりけそく)を作り、本堂に五色の幕を張って、一年で最も厳かなお飾りが施されます。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今年は日程を半日に短縮してお斎の提供も行えませんが、いろいろ工夫しながら今年も報恩講をおつとめします。ぜひお参り下さい!
報恩講準備会
【参加者】役員・寺世話方・婦人会役員・教化委員・住職・前住職・坊守
すっかり日が短くなり、秋の深まりを感じるようになったこの日の夜、宝林寺の役職者の方々に集まっていただき、報恩講準備会を開催しました。
今年は新型コロナウイルスの感染拡大防止を念頭に、日程を半日として、お斎の提供を控えることとしました。それに伴って、例年お仏供米、野菜代として町内の檀信徒の皆さんから集金させていただいていましたが、今年は行わないことにしました。また入堂に際しては、検温、手指消毒をおこなうことなども確認しました。
いろいろ制約はありますが、こんな時だからこそ、安全に留意しながら仏法聴聞の場を確保する必要を感じます。檀信徒に限らず、皆さまにはぜひお参りいただいと思います。<(_ _)>
共同学習会②
【テーマ】わたしの浄土真宗
【法 話】渡邉貴之師 豊田市守綱寺住職
先週の土曜に続いて雨模様で、この季節にしては肌寒さを感じる一日となったこの日、共同学習会の第2回目が開催されました。今回の講師は、豊田市の守綱寺より渡邉貴之先生に登場いただきました。住職になりたてで、まだ門徒披露もしていないということで、住職として紹介されるのは今回が初めてだと言われていました。
渡邉先生は、豊田市 上郷の一般家庭で生まれ、自動車関連の仕事に就いてみえましたが、縁あって守綱寺さんの娘さんと結婚されて、僧籍を取得し入寺されました。寺生まれで、物心つく前からお坊さんになるのが当たり前と周囲から期待され、その重さを抱えてきた私からすると、自分の意志で選んで入寺されたことは驚嘆すべきことであり、ぜひ一度お話を伺ってみたいと思っていました。
守綱寺さんの先代の住職は、大谷派の教学の重鎮 渡邉晃純先生で、奥さまは毎年、当山にも婦人会報恩講で法話をお願いしている渡邉尚子先生です。晃純先生と尚子先生は、それぞれ何冊も本を出版されていて、大谷派教団内では全国的にも名の通った先生です。
結婚に当たっては、晃純先生から「あなたもお寺で生活するんだから、課題をもって生きていってください」と言われたのが心に残っていると言われていました。今回の共同学習会のテーマは「わたしの浄土真宗」ということで、仏教や真宗についてのお話というよりも、話し手ご自身が日ごろ何を考えて日暮らしをされているかを伺うという趣旨なのですが、今回の学習会の案内文に「私たちの本当の願いは、生まれてきたことを喜びたいという一点ではないか?日常生活の現場こそ、このテーマを深めていく仏道の道場なのだ!」とあったのが、自分の思いと同じだと感じたと言われていました。
また「住職が注目している二人の法友より、それぞれが大事にしておられる課題について伺ってみたいと思います。」という文の「法友」という言葉が嬉しかったと言ってみえたのが印象的でした。
高校生と中学生になる3人のお子さんの父親でもある渡邉先生は、子どもを持つ多くの家庭の親御さんと同じく、学校の成績に一喜一憂しているお子さん達とどう向き合ったらいいか手探りで試行錯誤されていることも話されていました。
お話の中で、子どもにどういう言葉を掛けてあげたらいいか考えていた時に出遇った本についての話題がありました。毎月発行してみえる守綱寺さんの寺報『清風』に渡邉先生が書いている「本堂に座って」というコーナーがあります。今回のお話の中に出てきた、国語教師であり国語教育研究家でもある大村はまさんの『教師 大村はま 96歳の仕事』という本についての一文が引用されていたので紹介します。
今は、評価という言葉が「価値を認める」、評価されたとはほめられたことといったような、そういう意味に使われています。けれど、始めはそうではありませんでした。「評価」というのは非常に大事なことなのです。それは、「何がいくつできた」なんてことじゃないんです。
教師としたら、どの子が何がどのくらいできて、何がどのくらいできないのか、そしてこれからどんなふうに指導したらよいか、その指針を得るのが、評価ということです。子どもとしては、どんな字をどういうふうに間違ったか、自分はこれからどんなふうに勉強していったらいいか、その指針を得る、それが評価であって、「八つできた人が、七つできた人よりもいい」なんてことを考えるものではないというのが、戦後の考え方の大きな一つの柱でした。
それがいつのまにか、試験と同じ意味にもなってしまっているのです。保護者の方も、点数が上がったか下がったかにはたいそう敏感です。「この間は6点だったのに、今度は8点だった。よく勉強したね」とつまらないことをほめたりする。何も理由はないじゃないですか。
6点が8点になったって、どういう漢字の間違いをしなくなって、どういう漢字の使い方が身についたのかという証拠にはなりませんね。私はテストが大好きなわけではありません。ありませんけれども、秤が正確に意味を持っていなければ、重さを量っているのか長さを計っているのかわからないですよね。ともかく点数が少ないかどうかということだけの秤では、本当の勉強の意味を失くしてしまうし、判断を間違えてしまうという気がするのです。
私はご家庭の方に、そういうことをちゃんと見て、抗議してほしいと思います。「この子はこういうことを間違えた。どうしてでしょうか。どうしてだと先生はごらんになっていますか。」これは聞きただすべきですね。
先生はそれに、力いっぱいにお答えくださるのが当然です。「こういうふうな意味でこの問題を出したから、こういうふうになったんだ。ですから、こういう学力がないと私は認めました。」そうお答えいただくと、保護者のほうも「もっとちゃんと勉強しなきゃだめよ」なんて言い方をしないで済むんじゃないかと思います。
何かというと「ちゃんと勉強しなきゃだめよ」とおっしゃいますが、「だめ」の根拠がちっともわからない。だから、勉強の甲斐というものが子どもにはよく見えない。そのために学力に対する熱意、そういうものが欠けて、それで学力が下がってくるのではないですか。そんなわけで、おうちの方がご熱心に子どもの学力について考えられるときに、試験問題をそんな目でびしっとご覧ください。
点がよくても悪くても、これはどういう見方をしなきゃいけないのか、うちの子は何がだめなのか、読書が足りないのか、言葉の偏りがあるのか、そういうことを考えて言葉をかけていただきたいと思います。みなさん、点がいいか悪いかだけに夢中になってしまって、そして問題が適切かどうかなんてことはあまりおっしゃらないのですが、そういうことについて、保護者の目も弱いんだと思いますね。
だから、これからは、保護者の方が熱心さをそちらのほうへも向けて、ただ点数の上がり下がりでうれしくなったり悲しくなったりする世界から脱却なさるというのが、教育界をしっかりさせる元になるのではないかと思っています。(『教師 大村はま 96歳の仕事』大村はま著)
ほんとうに子ども達や、子を持つ親御さん達にぜひ目を通していただきたいと思うような文章です。
今にして思えば、私自身も中学・高校時代は、通知表や定期テストの順位を競わせることで学習意欲を維持させるような学校教育の仕組みに飲み込まれてしまっていたような気がします。周りもそうしているように見えるし、それが当たり前だと思っていました。定期テストの順位が上がったり、世間から難関校といわれるような学校に合格することが称讃されるというような空気です。
しかし私の場合は、なんとなくその価値観にも積極的には乗り切れず、ぼんやりと勉強嫌いなまま中学・高校時代を過ごしてしまったなという感じです。私と同じように感じていた方も少なくないのではないでしょうか。
多くの人が、子どもの時分に学習して新しいことを発見したり、これまで分からなかった数学の問題の解き方が分かるようになったりすることに喜びを感じたことがあると思います。それが受験を意識する中で、いつしか喜びの内容は、成績が上位になることの方にシフトしていき、常に他者と比較してどちらが上かと気にせずにはいられなくなります。この空気はとても息苦しいですが、学歴社会は従順で優秀な人材を大量に生み出すには都合の良い仕組みだったのだと思います。
日本がアメリカに次いで世界第2の経済大国に躍進して、人々も豊かさを実感できた時代まではこの仕組みがうまく機能しているように見えていました。しかし経済も長く停滞し、皆が常に我慢を強いられていて余裕がない現代、つまずいてしまったりルールを逸脱してしまった人に対して、必要以上に叩くような不寛容でギスギスした社会を生み出してしまっている原因の一つではないでしょうか。
女性装の東大教授、安冨 歩(やすとみ あゆみ)さんが、「今の世界の諸悪の根源は、人々が、子ども時代に子どもらしく生きる時間を生きられないことだ。じゅうぶん子どもらしく生きることができたなら、権力を振り回すようなヘンな大人になることはない。」というようなことを言われていますが、今の社会の状況を見るにつけ、本当にそのとおりだなぁと思います。
うちの子どもも、来春に高校受験を控えていますが、コロナの影響もあってか勉強のモチベーションが上がらず苦戦しているようです。その姿に自分の学生時代と重ね合わせ、当時どういう思いだったかを振り返るきっかけをもらっているようです。子どもにどういう態度で接していくか、私も手探りの状態です。
※守綱寺さんでは、毎月『清風』という寺報を発行してみえます。渡邉晃純先生、尚子先生、今回の貴之先生、坊守の陽子さんがそれぞれコラムを担当していて、四人の個性が表れていてとても読み応えがあります。他にも掲示板の言葉やさまざまな活動の案内などとても充実していて、私がこれまで見た寺報の中でも、その充実ぶりは群を抜いています。
その寺報の内容が、お寺のホームページで公開されていて誰でも読むことができます。ぜひ一度ご覧ください。
→ 守綱寺ホームページ
共同学習会①
【テーマ】わたしの浄土真宗
【法 話】鈴木量応 師 (知立市浄教寺住職)
台風の影響が心配されましたが、おかげさまで進路が南に逸れて静かな雨模様となったこの日の午後、共同学習会の第1回目が開催されました。今回はじめて当山に登場していただいた、鈴木量応先生のお話の一部をご紹介させていただきます。
◆ ◆ ◆ ◆
「わたしの浄土真宗」ということでいえば、親鸞聖人(1173~1262)は、この「浄土真宗」というのは一宗派の名前ということではなく、“浄土を真(まこと)の宗(むね)とする”というふうに言っておられて、これは一つの価値観といいますか生き方を表す言葉として受けとめておられるんだと思います。そしてこの土(ど)、“浄(きよ)い土をいただく”というのが、親鸞聖人の世界観ではないかなと思うんですね。
土というのは大地ですね。どこまでも水平に広がっていて、誰もがその上に乗っかっているわけです。しかし仏教を勉強したりすると、ともすると入門して初級、次は中級に上がって、さらに上級へと階段を上っていくように、何か賢くなったり立派になっていくように思いがちですが、そうではないんですね。仏法を聞かせていただくことによって、ますますみんなが同じ大地に立っているということに目を見開かせていただく、つまりこの大地をいただくということが仏教の教えをいただくということなんであって、決して上に登り詰めていくというような話じゃないんですね。同じ大地に立つ者として、お互いを尊敬しあう、そういう世界を浄土と言ってもいいんじゃないかと思います。
そういうことを中心として考えていく時に、いったいこの世の中というのはどうかといったら、自分自身の知識や評価軸ということが、この浄土から問われてくるということがあるんではないかなと思います。
『歎異抄』(たんにしょう)という書物がありまして、これは親鸞の弟子の唯円という人が書かれたものだといわれていますが、この書物のいちばん最後に「大切の証文」といわれている一文があります。これは親鸞聖人が35歳の時に朝廷から弾圧されて流罪にされたのですが、その時の記録なんですね。なぜ流罪になったかというと、朝廷から「念仏申してはならない」と言われていたのに、念仏申したからなんですね。そして師である法然上人は四国、親鸞聖人は越後に流されます。そうやって罪人にされてしまったわけです。
お念仏申すことが、なぜ罪人にされたり流罪にされたりするのか、今の時代からはなかなか分かりづらいことだと思うんですが、このどこまでも水平な大地に人間が立つということになりますと、男も女も、お金がない人もある人も、国籍が違っても人種が違っても、その当時でいえば身分が違っても、みんな同じ人間だということになるわけですが、そのことが許される時代ではなかったわけですよね。「貴族も農民も同じ人間だ」そういうことを言うと「何を言うとるんだ!」といわれるような、そういう時代に親鸞聖人は「皆おなじ人間だ、平等なんだ」ということを言ったばっかりに、「そんなこと言ってもらっては困るんだ」ということで流罪に遭われたんですね。「その念仏をやめなさい」ということです。
そういうことが、今のこの世の中でなかなか想像がつかないことなんですけれども、でも実際には今の世の中でも、同じところに立つということで言うと、たとえば、会社の偉い人とか、総理大臣とか、あるいは天皇だったりとか、こういう人たちが同じ人間として、同じ大地に立つ者として果たして見られるかということを考えてみると、なかなか同等とはいかないんじゃないでしょうか。もしかすると今の世の中でも、そんなことを言うとちょっと怖いことになるかもしれませんね。
親鸞聖人の当時は、そういうことを言うと本当に首をはねられたりする時代の中で、「人間はみんな等しく尊いんだ」ということを仰った。それが親鸞聖人の生き様ではないかなと思うんですけれども、そういう親鸞聖人を非常に興味深く思っていますし、私がそういう親鸞聖人に出遇ったのは大学生の頃ですけれども、はじめて仏法というものに関心が湧いてきて、このことをずっと勉強していきたいなと思った記憶があります。
私の父は現在79歳なんですが、私がまだ小さかった頃から父の友人達がよくお寺に来て、私もいっしょにいろいろな話を聞かせてもらいました。この方たちもお寺さんなんですが、お檀家さんの所へお参り行くだけでなくて、いろんな社会的な問題に関わっておられる方がたくさんおられたんですね。そういう中で、ある方は外国人の労働問題に取り組んでおられたり、靖国問題について、たとえば総理大臣が靖国神社に参拝することにどういう問題があるのかということなんかをずーっと話し合っておられる様子を「いったいこのお坊さんたちは何を真剣にやっているんだろうな」と子どもの頃に見て思っていたことがあります。
また1フィート運動といって、太平洋戦争の沖縄戦の時の様子を米軍が記録した映像フィルムがあるんですが、それをみんなでお金を出し合って買い戻し、上映会をするというような運動が当時ありました。たまたまうちのお寺でもその上映会の会場になったことがあるんですが、今から考えると小学生があんな強烈な影像を見てはいけなかったんじゃないかと思うんですが、人が火で焼かれたり、銃で撃たれたり、断崖から大勢の人が飛び降りる様子などが記録されている影像を見たんです。
そうやって戦争のことを問題にしている先輩方の姿を見ながら、いったい浄土真宗の教えを聞いている人たちは、どんなふうに生きているんだろうなとか、お坊さんであっても、ただお参りをしていればいいというんではなくて、いろんな問題に関わりながら、この大地に生きるということをどんなふうに考えていくんだろうなということを、ぼんやりとは思っていましたけれども、いったい親鸞聖人がどんな方であったかということはあんまり深く考えたことはなくて、大学の3回生の時に、教師修練といって、本山での研修がありまして、そこでいろんな人と出遇い話をする中で、すごく親鸞聖人に対して興味が湧いてきたということがあって、また本気でお寺をやっても良いかなと思えた瞬間でした。
親鸞聖人が非常に影響を受けた人ということでいえば、私はおそらく聖徳太子からいちばん影響を受けたんじゃないかなと思うんですけれども、皆さんも「和を以て貴しとなす」という言葉をお聞きになったことがあるんじゃないかと思います。これは実は聖徳太子が作られた十七条憲法の第1条に出てくる言葉なんですね。この部分を真宗聖典では、「和(やわ)らかなるをもって貴(たっと)しとし」と、こう書いてあるんですね。“和”というと何となく、「いろんな人の意見を集約して一つになりましょう」というようなイメ-ジがあるかもしれませんが、そうではなくて「和(やわ)らかなる」というのは、「それぞれの意見を尊重しながら共に生きよう」というようなニュアンスを感じます。
これは聖徳太子の逸話にも表現されていまして、「聖徳太子は10人の人の話を一遍に聞くことができた」というような話を聞いたことがあるかと思いますが、これは実際に一斉にしゃべる10人の人の話を聞き分けたということではないんだと思うんです。そうではなくて、おそらく10人の意見の違う人たちの話を聞く耳を持っていたということじゃないかと思うんですね。「私はこう思う」という人たちの意見を「あんたそれは違うよ」とか「あんたはもういい」と排除せずに「どうしたんだね」というふうにちゃんと耳を傾けた、そういう聞く耳を持っていたというのが聖徳太子の姿勢だったんではないかなと思うんですね。
「和(やわ)らかなる」というのは、そういう聖徳太子の姿勢にも表れているんじゃないかと思います。こんなことを言うと怒られちゃうかもしれませんが、今度、総理大臣になられた菅 義偉(すが よしひで)さんですが、森達也さんという映画監督が『i新聞記者』というドキュメンタリー映画を撮られて昨年公開されました。その映画の中で、管さんがまだ官房長官だった頃の様子が記録されているんですね。東京新聞の望月衣塑子さんという女性記者が官邸の記者クラブに入って、官房長官の記者会見で手を挙げるんですけれども、管さんはほんとうに彼女を無視して指名しないんですよ。たまたま当てられて質問をしても、話をはぐらかしてまともに答えないんですね。そういう管さんの姿勢をずっと見せられていますと、「この人は話を聞いてくれないんじゃないか」というイメージを持ってしまいますよね。まあ私の偏見かもしれませんが。
管さんだけじゃなく、自民党とか与党、権力を持った人たちというのは、すべての人の意見を全部聞いちゃうと収拾がつかなくなっちゃうので、ある程度は制限して聞かないということはあると思います。ただ都合の悪い質問は全く聞かないとか、あるいは弱い立場の人を切り捨ててしまうというのは、違うと思うんですね。
聖徳太子は逆にそういうことをたいへん大事にされた方だったんじゃないかと思うんですね。国を治める者のあり方ということがこの十七条憲法には書いてあるんですけれども、「人間はまちがいを犯すんだから、いろんな人の話をちゃんと聞かなきゃいけないよ。大事なことはみんなで相談しなさい。一人で決めちゃいけないよ」そういうことが親鸞聖人もすごく新鮮に感じられたんじゃないかなと思います。
「自分が正しい」というところに固執せずに、いろんな人の意見を聞きながら一緒に考えていくということですが、それはたった一人であっても少数の人を決して見捨てないという姿勢なんだと思います。
秋季永代経法要がつとまりました。
【法 話】櫻部 開 師(西尾市正覺寺若院)
彼岸花もようやく咲いて、秋らしい涼しさを感じるようになったこの日の午前、秋季永代経法要がつとまりました。今回は新型コロナウイルスの感染拡大防止に配慮して午前中のみの日程でしたが、席の間隔を広めにとった本堂には多くの方がお参り下さいました。
法話は昨年に続き、櫻部 開先生にお願いしました。昨年も感じたことですが、今回もやさしい語りなのですが芯がしっかりしたスケールの大きさを感じるご法話でした。内容の一部をご紹介します。
◆ ◆ ◆
親鸞聖人は、「お念仏申しましょう」ということをお伝えするため、あるいはご自身がお念仏に出遇われた喜びを表現するために、たくさんの書物を残して下さっています。これをお聖教(しょうぎょう)と言います。その書き残して下さったものの中に「海」という字が何度も何度も出てくるんですね。さっき皆さんは正信偈をおつとめして下さいましたけれども、正信偈の中だけでも、本願海、群生海、海一味、大宝海、大智海と何度も何度もこの「海」という字が出てきます。親鸞聖人は、この「海」という表現をとても大切にされているんですね。ほんとうに繰り返し出てきます。
その「海」という表現をもってお伝えして下さっていることの一つに、私たちのこの“思い”。私たちがこの“思い”に迷っていく、私たちのこの思いの世界、迷いの世界というものを「海」と表現して書き残して下さったものが幾つかございます。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(高僧和讃)
今日は、こちらのご和讃をてがかりに皆さんと一緒にお念仏の教えを尋ねてまいりたいと思います。「生死(しょうじ)」というのは「生き死に」と書きますけれども、これは仏教では“迷い”を表します。私たちが日々、ある時は欲を出したり、ある時は腹を立てたり、ある時は浮かれて喜んだり、ある時は深く落ち込んだり、誰かを傷つけたり傷つけられたり、そういうことをほんとうに何度も何度も繰り返し、こういう世界を生まれ変わり死に変わりしている、私の思いに迷っていく世界。それを生死という言葉で表現しているんですね。ですから「生死の苦海」といのは、「迷い苦しみの海」ということです。
皆さんは「迷い苦しみの海」というと、どんな海を思い浮かべられるでしょうか。私は何かこう、あんまり天気が良くなくて、どこか薄暗くて、雨も強い、風も強い、波も高い、そういう荒れた海の中で高い波に呑まれてしまって溺れかけている。そしていっこうに岸に辿り着けない、そんな海を思い浮かべました。
しかし「生死の苦海ほとりなし」というところに、一つ教えられるのは、波が強くて、天候が悪くてほとりに近づけないというよりも、そもそもほとりはどちらにあるのか、岸はどちらにあるのか全く分からないということです。もし天候が良く波がおだやかであったとしても、見わたす限り水平線が広がっていたら、どちらに泳いで良いのか分からないんですよね。でも反対にどれだけ天気が悪くても、波が強くても 、「ああ、あっちにほとりが見えるな、岸が見えるな」となれば、自分がどっちに行けば良いかはっきりしているわけですね。
ところが私たちというのは、どちらへ向かったらいいのか分からないんですね。ほとりも岸も見えないということです。この「生死の苦海ほとりなし」というのは、この私たちの迷いの世界というものがほんとうに果てしなく広がっている様を表現するとともに、どこへ向かうべきなのか、私たちのその目指すべき方向というのが全く定まらないという、そんな姿を表して下さっております。
昨今の新型ウイルスが流行する中、特に緊急事態宣言というものが出されていた頃、「不要不急のことは控えて下さい」こういうことがしきりに言われました。今のこのウイルス拡大という状況の中で言われる「不要不急」というのは、端的に言えば、「生きていくために、生命維持のために必要なこと、急ぎのこと以外は、どうぞ控えて下さいね」こういう意味で用いられている言葉であろうと思います。もちろん私たちは 、生きるということが大事なことでありますから、ウイルス拡大ということがなくとも毎日がんばっていると言いますか、生きるためにいろんなことをしていると言いますか、変な言い方をするなら「生きるために生きている」ということになっています。
しかし「不要不急の」、「生きるために」というところで一つ立ち止まらされるのは、「生きるために」もちろんそれが大事なんだけれども、なぜ生きているのか?、なぜ生まれてきたのか?、どこに向かって生きているのか? このことが私たちは全く分からないんですね。
今から50年ほど前に、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人の「お誕生800年の法要」というのがおつとめされました。今度2023年には、「お誕生850年の法要」がおつとめされる予定になっているんですけれども、宗門では、こういう大きな法要がおつとめされる時はテーマが掲げられるんですね。50年前のお誕生800年の法要の際に提示されたテーマは、「生まれた意義と 生きる喜びをみつけよう」こういうテーマでした。 私は、「喜びをみつけよう」というわけですから、何か前向きなといいますか、明るい印象を受けるテーマだなと思いました。
しかし今年の冬、2月にお会いした方で「私はこのテーマを初めてみた時に、なんと残酷な言葉だろうか、そう思いました」と涙ぐみながらお話し下さった方がみえました。その方がほんとうにどういう思いでおっしゃられたのか、深くたずねずにあまり勝手なことは申せませんけれども、ただお聞かせいただく中で思いましたのは、この私たち自身が抱えている「なぜ生まれてきたのか? なぜ生きているのか? どこへ向かっているのか?」そういう問題にほんとうに向き合い、また苦しんでいる方にとって、「生まれた意義と 生きる喜びをみつけよう」というのは、ほんとうに重く、難しい問題を突きつけられているような気がして「残酷だ」と、こうおっしゃられたのかもしれません。
ただ、この「なぜ生まれてきたのか? なぜ生きているのか?」というのは、何か真剣に思い悩んでいる人、だれか特別な人だけの問題というのではない。私たち誰しもが備えている問題であります。私たちは、この身が生まれて、そして後になってから、この「私」という自我意識がどんどん膨らんでいきます。ですからこの「私」という思いの上においては、気がついたら生まれていた。だから何で生まれてきたのか、何で生きているのか分からないんですね。まるで目が覚めたら大海原の真ん中にいた。見わたす限り水平線が広がっている。どこへ向かっているのかわからない。
そうした中で、なぜ生まれてきたのか、どうして生きているのか分からない私たちは、同時に「生まれてきてよかった。生きてきてよかった。私はここにいていいんだ」そんな世界に出遇いたいと誰しもが求めているんです。「ここにいてよかったんだ」とまさに“ほとり”を求めているんですね。
秋の教化委員会を行いました。
【参加者】役員・寺世話方・本山世話方・婦人会役員・教化委員
断続的に降る雨も晩には少し上がり、秋らしい涼しさを感じるようになったこの日の夜、秋の教化行事について協議をいただくため、教化委員会を行いました。
来月に行われる共同学習会、毎年この時期にお集めいただいている修繕事業の積立金について、そして最近はじめた宝林寺のyoutubeチャンネルについても紹介させていただきました。
お寺の役職者の方々も、最近はスマホやPCを使いこなしネットにも馴染んでみえる方が増えてきて、さっそくレジメに載せたQRコードをスマホで読み込んで、動画をみて下さった方もありました。
コロナ禍で、お寺の行事は縮小気味ではありますが、お寺を支えて下さっている役職者の方々が協力的なのでありがたいです。今後ともどうかよろしくお願いいたしします。<(_ _)>
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
【法 話】羽向 智洋(うこう ちよう) 師(西尾市 専念寺住職)
暑さも少し和らぎ、本堂に吹き渡る風が心地良い晴天となったこの日の午前中、婦人会秋季彼岸会がつとまりました。この4月から婦人会役員さん達は新たな顔ぶれとなりましたが、新型コロナウイルスの影響で、花まつり誕生会を中止したので、新役員さん達にとっては、今回が実質的な最初の行事となりました。仏具のおみがき奉仕や事前の打ち合わせ、仏華も立てていただき、この日を迎えることができました。どうもご苦労さまでした。
法話は、羽向智洋先生にお願いしました。先生の法話をお聞きするといつも感じるのですが、社会の動きや、思いどおりにならない人間模様などにも丁寧に目を配り、独自の言葉でお念仏の教えを表現されるので、「ああ、そういう見方もあるかぁ」と新たな視点を与えられることが度々あります。
今回の新型コロナウイルスによる病苦の拡大は、私たちが人間らしくあるために必要なさまざまなつながりに分断をもたらし、経済的な困窮も引きおこしています。またマスク警察や自粛警察というような、他者に対する不寛容さが目立つという現象も各地でおこっています。
先生は、コロナ禍によって顕在化してきた、これら“孤独”の問題について考えていこうとする時の視点として、「お釈迦さまの在り方というのは、“一人になることができた”ということだと思う」と言われます。そしてこれがお釈迦さまの“お悟り”の内容と深く関わっていると。私たちが孤独を怖れるのは、これまで生きてきた中で多かれ少なかれ、誰にも声を掛けてもらえなかったり、その場にいても無視されたりという経験があり、そのような状態は社会的死であり、生きていくことができないことを知っているからです。
そんな事態を回避するために、誰でも生きていくため、家族のためを思えば、長いものには巻かれろで、相手の顔色をうかがったり、不本意な言動をせざるを得ないという場合もあると思います。
それに対し、「一人になることができた」というのは、そのようなしがらみから解放されて、ある意味で世間から出ることですが、「お釈迦さまは、誰に接する時も、相手によって態度を変えることがなかったからではないでしょうか。一人になることによって、あらゆる人々と出会うことができたのです。」と言われ、藤場俊基先生が最近出された本の内容について紹介してくださいました。私もこの本はすでに購入して読んでいて、羽向先生と同じく、目から鱗が落ちる思いをしたのでとても印象に残っています。
お釈迦さまは、29歳で皇太子の位を捨てて出家し80歳で亡くなるまで、自らは労働を行わず、衣食住のすべてを人々の喜捨(お布施)に依っていました。また弟子も大勢ありましたが、彼らもまた生活の糧はお布施でした。
藤場先生は、例えばお弟子たちが1000人いたとして、それらの自活する力のない仏弟子たちの生活を維持するには、いったいどれだけ多くの人々が関わっていただろうかという疑問を「釈尊はなぜ餓死しなかったか」という一節で問題にしてみえます。仮に1日一食か二食だったとしても、おそらく何千人何万人という方々が喜捨をしなければ、その生活を賄えないはずですが、なぜ多くの人々お釈迦さまに帰依し、喜捨をしたかという問題です。
私は漠然と、お釈迦さまの説法に多くの方が感動し、敬意を表して経済的に支援したのではないかぐらいに考えていました。しかし藤場先生は、置かれている立場や教育水準も違う人々が、みんなお釈迦さまの説法を理解して喜捨したというのは無理があるのではないかと言われるのです。
藤場先生は以前、重い障害を持った方たちが通う作業施設やグループホームなどを運営する社会福祉法人の理事長をされていたそうですが、そこで見聞きしたことが、敬意とはいかにして成り立つかということを考える視点を与えてくれたのだそうです。その施設では、職員たちが利用者に対してとても丁寧に接していたので、利用者はとても居心地が良さそうで、自分が大切な存在として敬意を払われていると感じられるだろうし、介護の様子を見ている方も不快感や違和感を感じることはなかったといわれます。
普通、私たちは、人から尊敬されるとか価値を認めてもらえるのは、その人の能力や実績が優れていたり、あるいは身分や地位が高かったりすることが、その理由だと考えているのではないかと思います。だから他の人から敬意を払われたいと思うならば、自分自身の能力を向上させたり、品位ある行動を心がけるなどして、自分の内面を高めることによって人から尊敬されようとします。それが私たちが生まれた時から刷り込まれてきた価値観です。ところがその施設で見た風景は、その価値観ではまったく説明がつかないのです。その施設の利用者には、一般的な意味での社会活動をするための能力や社会に貢献した実績などほとんどありません。そこで出あった人たちは、役に立たない存在として社会から切り捨てられてしまいかねない人たちでした。ところが、利用者の人たちが、そこで人間としての尊厳を損なわれるような光景を見ることはありませんでした。 (中略)
釈尊は、社会の底辺に位置づけられて差別され、人間ともみなされていない中で生きざるをえなかった人たちに、一人の人間としての敬意を持って向き合われたのではないかと思うのです。
ご存じのように、当時のインドはカースト制と呼ばれる厳格な身分制度の下で、想像を絶する厳しい差別がありました。制度的には改善されましたが、今日でもなお厳しい差別の現実が残っているのではないかと思います。最底辺に位置づけられた人たちは、直接触れること、場合によっては影を踏むことさえ忌避されました。同じ井戸の水を自らの手で汲むことも禁止されていたそうです。
上位カーストの人たちから人間扱いされなかった人たちが、釈尊やそのお弟子たちから、人間としての尊厳性を認める向き合い方をされたらどうでしょう。たとえば、差し出された一椀の食べ物を「ありがとう」と受け取ってもらえたら、釈尊の正覚(おさとり)については何もわからなくても、感動するのではないでしょうか。釈尊や仏弟子たちは、相手の属性によって態度を変えることはなかったのだと思います。その態度や生き方に触れた人たちは、自らの人間としての尊厳性に目覚めていったに違いありません。
敬意には相互性があります。ですから、そのような態度や生き方を示したことで、釈尊や仏弟子たちもまた多くの人から敬意を払われることになったのです。(『教行信証 大河流覧』より)
お経には、状況を説明するのに具体的な数字が書かれていることがよくあります。たとえば『阿弥陀経』では
【原文】かくのごとき、我聞きたまえき。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。
【意訳】このように私、阿難(アナン)はお聞きしました。ある時、釈尊がコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)で、出家の高弟、その数1250人の方々とご一緒でした。
とあります。ここに「お釈迦さまは仏弟子1250人と共におられた」とありますが、この1250人という人数を、私はいわば枕詞のような修飾語として受け取り、そのリアリティや背景について注意を払ったことはこれまでありませんでした。
この藤場先生の指摘から、私は日々法要で教典を読み、人にも教えの言葉を語りながら、実は教典に表されている言葉に真剣に耳を傾けていなかったのではないかと教えに向き合う姿勢をあらためて問われたように感じました。
話題となった藤場俊基先生の著書。
この本はオススメですよ!
秋の行事に向けて仏具のおみがき奉仕をしていただきました。
【担 当】婦人会役員と北根(1~7班)の連絡員さん
天候不順で、9月の中旬にしては少し蒸し暑さも感じた日曜日の朝、秋の行事に向けて本堂の仏具のおみがき奉仕をしていただきました。
コロナウイルスの感染拡大防止のため、本堂入り口では検温と手指消毒、換気に気をつけるなど一連の対策も、春先から何度もやっているため皆さんも違和感なく受け入れて下さいます。
マスクの着用も当たり前になってきましたが、それでも力を入れて仏具を磨くと少し汗ばんだりもします。世間話に花を咲かせつつ、約1時間ほどで作業を終えていただきました。ありがとうございました。
明後日の婦人会秋季彼岸会に向けて、また明日は婦人会役員さんたちによって、本堂の大きな華瓶(かひん)に仏華を立てていただきます。よろしくお願いいたします。m(_ _)m
報恩講に向けて、仏具のおみがきと清掃奉仕をしていただきました。
【担 当】(おみがき)北根の連絡員さん
(清掃奉仕)22・23・24班の皆さん
秋らしく晴れわたったこの日の朝、今月中旬につとまる報恩講に向けて、仏具のおみがきや境内やお非時場の清掃奉仕をしていただきました。担当者の皆さん、どうもありがとうございました。
夏から始まった本堂の塗装工事や、昨年の台風によって被害を受けた箇所の修復も10月いっぱいで終わり、今月の初めより庭木の剪定も業者さんに入ってもらっているので、境内一円がきれいに整えられつつあります。
少し肌寒くなってきた気候もあいまって、今年もいよいよ報恩講が始まるなぁと感じます。どうか一座でも本堂に座り、仏法聴聞の機会をつくっていただきますようお願いいたします。m(_ _)m
報恩講準備会を行いました。
【参加者】役員・寺世話方・婦人会役員・教化委員
すっかり涼しくなり、秋の訪れを感じるようになったこの日の夜、報恩講準備会を行いました。報恩講とは浄土真宗の宗祖 親鸞聖人のご命日(1262年11月28日)を中心に勤められる、真宗門徒にとって年間最重要の行事です。当山でも毎年11月15日~17日の三日間の日程で勤められており、この日はその準備のための会合です。
報恩講の準備は、町内ご門徒からのお志のお集め、仏具のおみがき・清掃、もちつき、仏華、本堂外側の幕掛けなど多岐にわたります。各担当の皆さま、よろしくお願いいたします。<(_ _)>
世間では、お寺離れ、宗教離れといわれて久しいですが、残念ながら当山でも、私(知見)が寺に帰って来た当時と比べると、参詣者は減少傾向です。これまでお寺に足繁く通ってお参りして下さったお爺ちゃんお婆ちゃん世代が亡くなると、次の世代の方はなかなかお寺に足を運んでいただけていません。
昔の人は経済的には豊かとは言えず、趣味や娯楽が少なかったからお寺参りなどという前近代的なイベントで満足できていたのでしょうか? そうではないと思います。今より封建的で、多くの理不尽なことが罷り通っていた時代、特に女性は我慢を強いられる場面が多かったと思いますが、お参り先で目にする、線香や蝋燭のススで覆われた古い立派なお内仏(お仏壇)や、手垢にまみれた正信偈の本や『御文さん』を目にするたび、苦難の生活の中で聞法を怠らず、お互いを思いやり、生きぬいていく原動力として仏法が生きて働いていたのではないかと想像します。
真宗の救いとは「過去が救われる」と言われます。それは、「これまでの私の歩みは、何一つ無駄なものはなかった」と自分で納得できることです。つまり、自分の人生を見つめ直し、いただき直す視点をたまわることといえるでしょう。そこにどうしても“聞法”という手続きが必要な理由があります。どうか一日でも、一座だけでもいいのでお寺に足を運んで、聞法の機会を持っていただきますようお願い申し上げます。
共同学習会(第1回)が開催されました。
【おはなし】深津佐千子氏(西尾市 臨床心理士)
【テーマ】「親ばなれ 子ばなれ」
秋の到来を感じさせる爽やかに晴れわたったこの日、共同学習会の第1回目が開催されました。今年は、宝林寺檀徒でもある臨床心理士の深津佐千子先生に2回にわたってお話しいただきます。
今回は、テーマが「親ばなれ 子ばなれ」だったこともあり、子育て世代のお母さんなども参加して下さって、にぎやかに開催することができました。講師の深津先生は長年臨床の現場でカウンセラーとして勤めてこられた経験から、この「親ばなれ 子ばなれ」という課題は、人が一生かかって取り組まなければならない大きな課題だと言われました。
なぜならこの「こころの問題」は、人間の無意識の領域が大きく影響しているからだといわれます。1900年にフロイトが『夢判断』という書物を著したことから臨床心理学という分野が始まったそうなのですが、身体を問題にする医学(解剖学)から350年も遅れて学問として認知されたのだそうです。
私たちは日ごろ、自分の理性をたよりにいろいろな判断をしたり考えているつもりでいますが、臨床心理学の発達により、実はそれも無意識によって影響を受けているということが分かってきたそうです。ですから最初に出遇う他者である親との関係が、その人の人格に大きく影響するというのは納得できる話です。しかし同時にいま中学生の子どもがいる自分は、日ごろの子どもとの関わりを思い出すと、いろいろ良くない影響を及ぼしているような気がして身につまされる思いでした。(-_-;)
また参加者の皆さんに、“バウムテスト”という心理テストもやっていただきました。A4の一枚の紙を渡され「一本の実のなる木を自由に描いて下さい」といわれ、10分ほど自由に描いて、休憩中に回収し、後で先生に簡単な解説をしていただきました。
私は、一本の木にリンゴがたくさんなっている様子を描いたのですが、他の方の作品を見てみると、私の予想をはるかに超えるユニークな作品があって面白かったです。絵の裏側には、どういう気持ちでこの絵を描いたかも記入するのですが、中には落花生が地中になっている様子を描き、「今朝、畑で収穫しました」と書いてあったり、別の方は、葡萄棚に葡萄がたくさんなっている様子に「主人が大事に育てています」とコメントが添えられていることを紹介し、先生が「こういうのを見ると嬉しくなっちゃいますね。生活感がよく伝わってきます。皆さんの絵を見比べてみると、絵の上手下手とかは関係なくて、ほんとうにいろいろな個性があるとあらためて思いますね」といわれていたのが印象的でした。
次回は、10月26日(土)午後3時から第2回目があります。テーマは「からだの死 こころの死」です。ぜひご参加ください!(^.^)/
秋季永代経法要がつとまりました。
【午前の部】法話:櫻部 開師(西尾市吉良町 正覺寺若院)
【午後の部】落語:お好味家喜楽さん、京家あい愛さん、永頃亭夢雀さん
もう10月になるというのに30℃まで気温が上がり、蒸し暑い一日となったこの日、秋季永代経法要がつとまりました。午前の部では、当山には初登場となる櫻部 開(さくらべ かい) 先生にご法話をいただきました。先生は著名な仏教学者 櫻部建(はじめ)博士のお孫さんに当たります。控え室で聞いて驚いたのですが、櫻部先生は、2席にわたる法話をしたのは今回が初めてなのだそうです。とてもしっかりした内容で、スケールの大きさを感じさせるお話だったのでとても信じられませんでした。またぜひこれからも来ていただき聞かせていただきたいと思いました。今回のお話の一部をご紹介します。
「なぜ生まれてきたのか?なぜ生きているのか?どこに向かって生きているのか?」これは、私たち全ての者が必然的に、根源的に抱えている迷いと苦悩なんです。なぜそう言い切れるかというと、私たちはみんな、この「私」という思いが“後(あと)から”起こってきているからです。みんなこの「身」が先に生まれて、だんだんとこの「私」という思いが大きくなってくるわけですね。そうすると「気がついたら生まれていた。物心ついたら生きていた」こういうふうなんですね。
「こういう者として生まれて、こういうふうに生きて、このために生きていくぞ」と決めてから生まれてきたというのならば、「なぜ生まれてきたのか?」という思いは湧いてきません。でも私たちはみんな気がついたら生まれていた。気がついたら生きていた。だから私たちは「なぜ生まれてきたのか?なぜ生きているのか?どこに向かって生きているのか?」こういう迷いと苦悩を全ての人が必然的に、抱えて生きています。
そして同時に、そういう迷いと苦悩を抱えた私たちが、「生まれてきてよかった。生きてきてよかった。私はここにいて良いのだ。私は私で良いのだ。そういう世界に出遇いたい」という願いを根源的に、必然的に抱えているんですね。それが私たちの迷いであります。
そしてその「生まれてきてよかった。生きてきてよかった。私はここにいて良いのだ。私は私で良いのだ。そういう世界に出遇いたい」そう思うがために、私たちは毎日、全ての人が一人ひとりの形で懸命に生きています。あの人はダラけているけれども、この人は頑張っているというんじゃない。全ての人が、その人その人の形で懸命に生きています。
本当に私たちは、いろんなことをしておるようですけれども、今の時代の中の一つの生き方としてあるのが「人材」として生きようとする、そういうことが一つあるのでないかなと思います。「人材」という言葉を辞書で引くと「役に立つ人。才能のある人」こういう意味が最初に出てきます。似たような言葉で「木材」という言葉があります。例えばお寺も木がたくさんありますけれども、大地に根ざしておるその木が、「私にとって都合のよい木なのかな。役に立つ木なのかな。質の良い上等な木かな。悪い木かな」そういう見方をした時に、大地に根ざしている木であっても、その木はもう木材になってしまうんですね。
似たような言葉もいっぱいあります。「食材」という言葉がありますね。いつだったかハンバーガー屋さんを取り上げた番組で、新しいハンバーガーを開発したいということで、メニューを考える担当の方が北海道まで行くという、そういう番組をやってました。「新メニュー開発の担当の◯◯さんは、北海道の牧場に新しい食材を探しに来ました」こういうナレーションが流れているんですけれども、映っているのは牛の影像なんですね。これは牛が牛ではなくて食材になっているということですよね。
それと同じように、人ということも「この人は私にとって役に立つ人かな。この経済社会の中で才能がある人かな。価値のある人かな」そういう見方をした時に、人が人材になっておるということですよね。でも私はこの「人材」という言葉自体に問題があるかといわれると、そうは思わないんですね。ただ「人材たりうる者でなければ居てはいけない、人材たりえない者は居なくても良い」こういう世界に問題があると思うんですね。
私たちは評価の眼(まなこ)をもって、評価の世界の中で生きています。「あの人は価値があるけれども、この人は価値がない」そういう評価をするんですね。そして自分の評価に合わない、都合に合わない人はなるべく遠くに行ってほしい、遠慮したい。見捨ててしまう。それがたとえどんなに大切な家族であっても、愛する子どもであっても、親しい友人であっても、尊敬する先生であっても、ほんとうにその時その時の都合、その時その時の評価で遠ざけてしまう、見捨ててしまうんですね。それが私たちの評価の世界。人材たりうるか、たりえないかという評価の世界です。
そしてその評価の世界に生きている私たちは、他人も評価するんですけれども、自分がどう評価されているかということを、とっても気にするんですね。だから私たち、大人も子どもも他人からどういうふうに見られるてるかというのをとっても気にします。「私はどのように評価されているのかな」ということをもの凄く気にします。
時々、まだ小さい子どもが「私は将来、社会の役に立つ人になりたいです。誰かの役に立つ人になりたいです」こういうことを言ったりすることがあります。それも私は、いけないと思わないし、ある意味ですばらしいことだと思いますけれども、子どもの口からこういう言葉が出てくることの背景に何があるんだろうかなと考えた時に、もしかしたら「役に立つ者は居る価値がある。居てもいいよ。けれども役に立たない者は居ちゃいけないのでないか」こういうことを知らず知らずのうちに、まだ幼い子ども達が感じ取っているんじゃないかな。まわりの大人達がそういうことを教え込んでしまっているんじゃないかな、そういうことを思うんですね。
他人をそうやって評価する。評価に合わなければ見捨ててしまう私たちですが、実はそれだけにとどまらず、私たちは自分自身も、この他ならぬ私でさえも見捨ててしまうんですね。見捨ててしまうと言うより、受けとめることができないんです。「あの人と比べてどうだろうか?、あの時の私と比べてどうだろうか?」ひとたび「自分は人材たり得ないんじゃないか」という評価となれば、私は私自身を受けとめることができないんですね。
そのことで一つ思い出す話がありまして、もう亡くなられたんですが、ある男性が私に「最近、ご飯を食べるのが申し訳ない。ご飯を食べていてもいいのかな、そういうことを思うんです」こういうことを言われたことがありました。私はびっくりして「どういうことですか?」と尋ねたんですけれども、そうしたら少しお気持ちを話してくださったんです。
その方は若い頃はお仕事がすごい楽しかったんだそうです。だから一所懸命お仕事に励まれました。成果も上げる事ができたし、いろんな人に頼られ、尊敬もされていたと思うんですね。そういう方ですから、お仕事を辞められた後も、地域の中の色々な役を受けられて、みんなから頼りにされておられました。
お家では息子さん夫婦と一緒に住まわれていたんですが、その息子さんが「お父さん、心配しなくてもお家のことはみんな僕たちがやりますから、お父さんは何でも好きなことをやってくださいね」と、こういう嬉しいことを言ってくれたそうなんですね。ほんとうに嬉しかったそうです。だからこの方はほんとうに溌剌としていろんなことをされてました。趣味のことをやったり、お家には本もたくさんあって「こんな本を読んだよ」と私にも話してくださったこともあるんですが、いろいろ勉強もされている、そういう方でした。
ところが、いよいよ歳を重ねてくると、やっぱり身体も気力も衰えてくる、耳や目もだんだん弱ってきます。ある日、一日のほとんどをテレビの前で過ごすことがあったそうです。それでも息子さん達は「お父さん、お風呂が沸きましたよ。ご飯ができましたよ」と声を掛けてくれる。それで食事をいただいていると「不思議だな。今日一日、何もしておらんけれども腹は減るんだなぁ」と思ったそうです。そして、だんだんだんだんそういう日が増えていったそうなんですが、ある日、心に浮かんできたのが先ほど言った「こんな自分が、ご飯を食べておっていいのかな」という思いだったそうなんですね。
ご飯を食べなければ死んでしまいます。それはつまり「自分は生きていていいのかな?自分はここに居ていいのかな?」若く溌剌として、活躍して、誰かの役に立っている、そういう自分は自分でうなずいていける。「自分が自分であっても良い」と思えた。しかし、何もできなくなってしまって「果たして私は何かの役に立っているだろうか?誰かの役に立っているだろうか?」そういう自分は、自分で受けとめられない。
家族は「お父さん、大丈夫ですよ。心配しなくてもいいですよ」と声を掛けてくれる。家族はそう言ってくれても、他ならぬこの私が、私のこの身を受けとめていけないんです。「役に立たないんじゃないか。人材たり得ないんじゃないか」という、この私を受けとめていくことができないんですね。他人を評価し、見捨ててしまう私たちは、私自身でさえも状況が変われば受けとめていけない、これが私たちの迷いなんですね。
◆ ◆ ◆
櫻部先生の人材の話をお聞きして、安冨 歩(やすとみ あゆみ)さんの著書『生きる技法』の中の、モラル・ハラスメント(=モラハラ。殴る・蹴るといった肉体的な暴力ではなく、発言や行動、態度などで相手を精神的に追い込む嫌がらせ)についての記述が思い浮かびました。
安冨さん自身が配偶者からモラル・ハラスメントをしかけられた経験があるそうで、その実態は、言葉や態度によって罪悪感を植え付けられ、その罪悪感を刺激し利用することによって相手を精神的に支配しながら、支配されている当の本人はそのことにまったく気づいていない、という状態となるというのです。
安冨さんは「配偶者にとって都合の良い夫という像を押しつけられ、私の人格の都合の良い部分だけを切り取られ、それ以外の部分は踏みにじられるという日常でした。」と結婚していた当時を振り返ってこのように書いておられます。
その人の全体ではなく、支配する側にとって役に立つ部分(労働力、経済力、肩書き、性的魅力 etc.)だけを切り取られ、それ以外の部分については価値のないものとして徹底的に攻撃し、罪悪感を植え付け、それを刺激することによって精神的に支配して、自発的にその役に立つ部分を差し出すように仕向けるといのがハラスメントの本質だといわれます。
「何かの役に立つ者は居場所が与えられ、そうでない者は排除される」という現代の風潮にも共通する問題だと感じました。これは個人的な特殊な例ではなく、私たちの暮らす社会全体を覆う空気と言ってもいいと思います。
小泉総理が政権に就いた頃から盛んに「自己責任」という言葉が喧伝されるようになりました。またその頃から健康食品や保険の広告などで「若い人に迷惑をかけたくない」というフレーズが目立ち始めたような気がします。そういう空気が当たり前になると、他者に助けを求めたり、お互い様でこれまでやってきたことも遠慮しなければならないようなことになると思います。これは、例えば葬儀なども“家族葬”といった少人数で行うようになったことも無関係ではない気がします。
はっきり言ってこの社会全体がモラル・ハラスメント状態になっていると言ったら言い過ぎでしょうか。この空気の延長線上に、立場が上の者の意向を忖度してルールを歪めるなどの不正が行われたり、さらには気がつけば全体主義(ファシズム)の時代へ逆戻りということにもなりかねないと思います。
自分が生きている今は、そういう現状であり、そのことは異常な状態なのだと見極めることがとても重要だと思います。そのためには、自分や社会の姿を映す鏡(仏法)に出遇う必要があると思うのです。
お彼岸ライブ in 宝林寺(2回目)
【出 演】杉浦美和さん(根崎)、RIKENさん(奈良)
桑田和平さん(羽曳野)、磯村幸平さん(根崎)
亀井岳彦さん(大阪)
お彼岸中の日曜日、昨年に続いて2回目となる“お彼岸ライブ in 宝林寺”という音楽ライブを行いました。私(知見)の大学の同級生RIKENさんは、会社員をしながら趣味で音楽活動をしていて、大阪方面で年間100本もライブをしているそうです。(驚)
この企画は、昨年「お寺でぜひライブをやらせて欲しい」という彼からの提案で始まったものです。しかしながら、この地方と縁のない歌い手のライブといっても、お客さんにもなかなか足を運んでもらいづらいだろうということで、檀家さんでもある根崎町在住のギタリスト 磯村幸平さんに相談したところ、出演と機材の提供まで快諾していただきました。さらにRIKENさんのライブ仲間で、ラグタイムブルース奏者の重鎮、大阪の亀井岳彦さんにも加わっていただき、思った以上に素晴らしいライブとなったのでした。
今年はさらに昨年のメンバーに加えて、根崎出身でCDデビューもしてみえるプロ歌手の杉浦美和さんと、RIKENさんと“ついん’S ”というデュオを組んでいる桑田和平さんにも参加していただき、昨年よりも更に厚みが増して魅力的な顔ぶれとなりました。
杉浦美和さんは、誰もが知っている名曲を独自にアレンジして美しい声で歌いあげ、ついん’S は軽妙な関西のノリで会場を盛り上げて、本職は旅行会社につとめる桑田さんの、ツアーコンダクターの日常を面白い詩にしたオリジナル曲などを披露し、会場は爆笑の渦となりました。
磯村さんは、クラシックギターやフラメンコギターが専門ということで、超絶技巧の演奏とスペイン語のエキゾチックな曲目、亀井岳彦さんは、確かな技術に裏打ちされた演奏と、ブルース・スプリングスティーンのような重厚な歌声で聴衆の心を鷲づかみにしました。
一組だいたい30分ほどの演奏時間でしたが、あっという間に時間が過ぎたという印象です。もともと本堂は畳敷きなので変な音の反響がなくて演奏しやすいらしいですが、磯村さんの提供してくださった機材は、かなり高価なものらしく、出演者の皆さんも、素晴らしい音響で演奏できたことにも喜んでみえました。本当にこの根崎のお寺でこんな贅沢なライブができるなんて、いろいろなご縁に感謝です。
打ち上げは、町内のろばた焼き“いっくん”で楽しく飲み語り合い、またぜひ来年もやりたいね、と出演者の皆さんも言ってくれたので、さらに魅力的な企画になるよう工夫してみるつもりです。今回は都合がつかなかった皆さんも、ぜひ次回はお越しください。予想以上のクオリティに本当にびっくりしますよ!
秋季教化委員会を開催しました。
【参加者】役員・世話方・本山世話方・婦人会役員・教化委員
蒸し暑い一日となったこの日の夜、この秋に行われる行事についての協議をするため“教化委員会”を行いました。当山では、年始めに行う“班長集会”、夏と秋の行事の前にそれぞれ行う“教化委員会”、“報恩講準備会”と、役職者の皆さんが一同に会する会合を年に4回おこなっています。この会合では、それぞれ行事の内容についての説明と役割分担、参加者への呼びかけや参加費の集め方などを確認します。
今回は10月5日・26日に行う共同学習会について、どういう意図でこの企画を考えたか、講師の臨床心理士 深津佐千子さんのことを説明させていただきました。老いも若きも、男も女も、誰もが“生きづらさ”を感じているこの時代、専門家ならでは視点でのお話は、きっと新たな“気づき”のきっかけとなるに違いありません。ぜひ多くの方に聞いていただきたい内容です。皆さんの参加をお待ちしております。<(_ _)>
また今回は、町内檀徒の皆さんに協力いただいている積立金 修繕事業費を元に、本堂の塗装工事や、経年劣化で傷んだ箇所の修復工事も始まっているので、その説明を合わせてさせていただきました。また役員会で検討されたこととして、これまで10年間にわたり積立をお願いしてきましたが、10年後に控える鐘楼門の塗装工事だけでなく、建物の経年劣化への対応、大型化する台風の被害も想定して積立金の増額も提案させていただき、ご承認いただきました。
地域共同体の崩壊や寺ばなれが叫ばれる昨今、350年の歴史があるとはいえ、これだけの施設を維持していくことは簡単ではありません。また建物だけ修復したとしても、それこそ“仏つくって魂入れず”で、この場所が地域の皆さんや関係する檀信徒の皆さんの“心の依りどころ”となっていなければ意味のないことです。
宝林寺が、皆さんにとってそういう存在となれるよう、今後もさまざまな活動や情報収集に努めていく所存ですので、またいろいろご意見をお聞かせいただければ幸いです。
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
【法 話】安藤智彦師(碧南市安専寺住職)
台風の影響か、9月とは思えない暑い一日となったこの日、婦人会秋季彼岸会がつとまりました。午前中はなんとか本堂で勤行(おつとめ)、法話をおこなったのですが、温度計を見ると正午には32℃となったため、午後は勤行・法話とも冷房設備のあるお庫裡の広間でおこなうことにしました。平成14年に今のお庫裡が竣工してからは、お寺で檀徒の皆さんの法事をつとめる場合は、部屋の広さがちょうど良く、冷暖房があるのでお庫裡でつとめるので勝手は同じなのですが、昼食後のわずかな時間でイスを並べて本堂から演台とホワイトボードを運んだり、前卓(まえじょく)に打敷を掛けたりとバタバタして、暑さと疲労で意識が朦朧としてきました。(-_-;)
またお昼には、婦人会の皆さんが前日から準備してくださった斎をいただきました。特にメインがちらし寿司だったので、暑い日にはぴったりでとても美味しかったです。どうもありがとうございました。
法話は、安藤智彦先生にお願いしました。先生のお話を伺うといつも思うことなのですが、日ごろから真摯に聞法されていることが伝わってきます。午前中は14組(碧南市の大谷派寺院のグループ)の組長として、先生が取り組んでいる、現代のセレモニー化してしまっている葬儀を“仏事”として回復していく試みの話題。(当日、皆さんに配っていただいたプリントを「お役立ちコーナー」にUPしました。)午後には、「真宗を学ぶとは“尊さ・人として生まれたことの掛け替えなさ”を学んでいくことである」というお話をしてくださいました。
3年ほど前、大谷中学・高校の校長をされていた真城義麿先生を14組で招いて学習会をされた時に、真城先生から問いかけられたという三つの質問のことが特に印象的でした。安藤先生もご自身で法事をつとめる時に、たまにこの三つの質問を参詣の方に問いかけているといわれていましたが、それは、
①皆さんは生きていますか?
②皆さんは“しっかりと”生きていますか?
③皆さんは“尊く”生きていますか?
という質問です。
皆さんに挙手をしてもらうと①、②は自信を持って手を挙げる人が多いそうですが、③になると、ほとんど手を挙げる人を見たことがないそうです。「つまり私たちは“尊く生きる”ということは普段あまり考えていないということですよね。現代は“しっかり生きる”ことが重視される時代です。例えばしっかり勉強していい学校に入り、いい会社に入って、いい暮らしをすることが素晴らしいという価値観ですね。そのためにみんな一生懸命がんばっているわけです。」と言われました。
しかしそれは役に立つ・立たない。間に合う・間に合わない。力がある・ないなどが厳しく峻別されるということを含んでいます。役に立つ間はいいですが、誰でもいつかは年老いたり、病気になったりして役に立たなくなったり、力がなくなったりします。そうすると生き辛さを感じたり、居場所がなくなったり、人に世話を掛けている自分自身を受け入れることができず、生きる意味を見失ってしまったりします。つまり自分の思い(価値観)に知らず知らず自分が縛られて苦しんでいるわけです。
本願念佛の教えは、智慧の光となってそういう私たちのあり方を照らして、“えらばず・きらわず・みすてず”と言われるように、役に立つ・立たないということを超えて、無条件で受けとめてくださる“尊さ”というまったく別の価値観を私たちに思い出させてくれる教えです。私たちが、お念仏の教えを聞き続けていかなければならない理由も、ここにあるのだと感じました。
仏具のおみがき奉仕をしていただきました。
【担 当】婦人会役員さん・北根②の連絡員さん
9月に入ったとはいえ、台風の影響か蒸し暑い一日となったこの日、この秋の行事に向けて、婦人会の皆さんにご協力いただいて仏具のおみがき奉仕をしていただきました。宝林寺では、春夏秋冬のそれぞれの教化行事の前に、年4回仏具のおみがき奉仕をしていただいています。
大谷派の仏具は、真鍮(しんちゅう)という金属で造られており、きちんと磨けば黄金色の鋭い光を放つのですが、2、3ヶ月も経つと全体的にくすんでしまうので定期的なおみがきは欠かせません。
なぜ金色である必要があるかというと、浄土真宗の根本の教典である『仏説無量寿経』に、「極楽浄土はこういう世界であって欲しい」ということがたくさん書かれているのですが、その中に「悉皆金色の願(しっかいこんじきのがん)」といって、「浄土ではあらゆる物や生物が光り輝いている」と表現されているからです。実は浄土真宗のお寺の本堂の内陣や家庭のお内仏も、浄土の世界を象徴的に表現されたものです。「象徴」を辞書で引くと「抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと。また、その表現に用いられたもの。シンボル。(例)「平和の象徴」「現代を象徴する出来事」。とあるように、誰もがその光り輝く造形を見ることによって、浄土を思い起こすことができるのです。
そう言ったわけで、内陣の背景の壁面などは金箔が押されていますが、仏具もピカピカに磨き上げる必要があるのです。もっとも家庭のお内仏(お仏壇のこと)では、最近売られているものはメッキ加工がされていたりコーティングが施されていたりして、金属磨き用の薬品の使用は禁じられている場合が多いようですが。
家庭用のものと比べればはるかに大きいお寺の仏具を磨くのはなかなか大変ですが、それでも婦人会の皆さんは慣れた様子で1時間ほどで作業を終えました。お茶とお菓子をつまみながらしばらく談笑したあと解散となりました。ピカピカに磨かれた仏具は鋭い光を取り戻し、これで秋の行事が迎えられます。婦人会の皆さん、ありがとうございました。
報恩講の準備がはじまりました。
秋の深まりを感じる肌寒さを感じる朝となったこの日、今月15日から始まる報恩講に向けての仏具のおみがきと清掃奉仕をしていただきました。
宝林寺では仏具のおみがきは、婦人会の皆さんにご協力いただき、年4回おこなっていますが、報恩講では使用する仏具が多いため、ふだんのおみがきの倍の担当グループで作業をしていただいています。
清掃奉仕では、今回は土曜日に日にちを設定したためか担当班の方でも都合の悪い方もあったようで、少ない人数ながら本堂裏側の草刈りと、お非時場などのガラス拭きをやっていただきました。
また10月31日には、報恩講の仏華づくりを担当していただいている沓名美代さんと神谷正さんが、その準備として、庭師さんに剪定してもらった松葉の採集をしていただきました。集めた松葉をそれぞれ家に持ち帰り、細い木に挿して松の枝の形に加工するという細かい作業をしていただいています。
報恩講は、法要の期間は3日間ですが、半月以上もかけて多くの方のご協力によってつとめることができます。本当にありがたいことです。
共同学習会②
秋らしく爽やかな晴天となったこの日、共同学習会の第2回目が開催されました。先回と同様、正信偈同朋奉讃のおつとめの後、今回は杉浦智見先生よりお話をいただきました。
杉浦先生について、以前からすごいなあと思っていたことがあります。お話の中でも触れられていましたが、それは先生の一途さというか、フットワークの軽さです。「これから自分はいかに生きていくべきか?これからお寺をどうしていけばいいのか?」という問いは、多くの僧侶が持つものですが、その問いに向き合い続けることはシンドイし、日々の忙しさが紛らわせてくれるということもあって、私なども考えすぎないようにごまかしながら日々を送っているのが現状です。
しかし杉浦先生の場合は、これは!と思う先生の所へは、距離をものともせずに直接会いに行ってしまうのです。ある時、大谷派の靖国問題の草分け的存在である和田稠(わだしげし)先生を石川県大聖寺の自坊へ訪ねた時、「『寺を開く』にはどうしたらいいですか?」と尋ねたことがあったそうです。「寺を開く」という言葉はお坊さんの世界ではよく使われるフレーズなんですが、もちろん「新たに寺を作る」という意味ではなく「寺を活性化していく」というような意味で使われます。
例えば以前、岡﨑教区の親鸞聖人750回御遠忌をつとめた時に「寺を開かれた念仏の道場に」というテーマが設定されました。杉浦先生も、別に思い詰めていたわけでもないでしょうが真面目に受け止め、和田先生ならどう言われるかと思ったのでしょう。
問いに対し和田先生は「それならまずあなたが開かれた人になりなさい」と答えられたのだそうです。しかし今度は「開かれた人になる」とはどうなることなのか、新たな問いとして今も持ち続けているそうです。
お話の最後に元プロボクサーのお笑い芸人、たこ八郎の「迷惑をかけてありがとう」という言葉を紹介してくれました。つながりが希薄になっている今のご時世は「人に迷惑をかけてはいけない」という空気が以前にも増して強くなっている気がします。一見もっともらしくりっぱな態度のようにみえますが、自分が気づかないだけで、実際は大いに迷惑をかけているということもあるのではないでしょうか。
人と人が親密になるということは、思いがけず相手が自分のことを気にかけてくれていたという事実に気づき、自分もまた相手に何かしてあげられることはないだろうかと気にかけていくことを抜きには成り立たないと思います。またそういう関係性によって自分自身も支えられているのでしょう。
私の高校の時の卒業アルバムで、担任の先生が寄せ書きに「自分がいるだけで、既に迷惑をかけていることを忘れずに」と書かれてあったことを思い出しました。当時の私はこの言葉をみて「何と後ろ向きな」と少し不快な思いを抱いたことを覚えています。担任の先生が、あの時私たちに伝えたかったのも、こういうことだったのかなと今になって思います。
秋季永代経法要①
台風の影響で、開催日を変更してつとめた永代経法要。午前の部でお話しいただいた、羽向智洋先生の法話の一部をご紹介します。
私たちの人生は、この道はいったいどこへ向かっているんでしょうか。安倍さんが、3選でまた首相をやられますけれども、6年前に首相になった時に「この道しかない、この道を行くんだ」と言ってましたが覚えてますか?「この道」とは何だと言ったら“アベノミクス”のことですよね。
その中身は何だと言ったら「景気をよくしますよ」ということですよね。これが一つ目。そのためには、とにかく企業が競争力をつけて発展するためには、いろんな縛りがあっちゃいかんから、ルールの見直しをして誰もが競争に入れるようにしましょうという「規制緩和」。これが二つ目なんですよ。
確かに景気は良くなりました。でも最初に言われたのは「企業が儲かれば、その利益がだんだん下に流れていって、みんなの給料も増えますよ。幸せになりますよ」といわれて始まったんですが、でも働いている人の給料は増えたかというとどうですか?いろんなニュースを見てもほとんど増えてませんね。横ばいか、少し下がっているのが実際です。ちょっと約束違反じゃないかという気がするんですけれども。
規制緩和にしても、誰でも競争に入れるというところで問題になっているのは何かといったら“モリカケ問題”でしょう。森友学園の問題では、首相の奥さんの昭恵夫人と関係が深いとされる学校法人にえらい安く国有地を売ってしまったり、加計学園の問題では首相のお友達に特別な配慮をしたんじゃないかという疑惑がいまだにくすぶっていますね。そういう問題があります。
それからイノベーション、技術革新とは何だと言ったら、最近は“AI”という横文字が出てきました。これは「人工知能」だそうです。コンピューターが発達してきて、人間が頭で計算したり考えたりするよりもうんと速く答えを出すわけですから、これからはロボットに仕事を代わってもらうことができるようになる。確かに工場では今、ロボットがいっぱい入って仕事してますね。それだけじゃなくて、これからは一般事務職の方にもそういうAIが入ってくると。ある予想では、そうすると事務職の仕事の人の約4割はいらなくなるそうですね。「楽になっていいなぁ」で給料をもらえるなら良いですけれども、「あんたはもういりませんよ」となったら、これはたまったもんじゃないですよね。
安倍さんが、この先の最後の3年間で何をしたいかといったら、「相変わらずこの世の中は競争で争いの世界だから強くならなきゃいけない。強くなるためには軍隊を持たなきゃいけない。そのためには自衛隊を表に出して、憲法にちゃんと位置づけましょう」それが彼の最終的な目的ですよ。
さあ、そういう道が、私たちは日ごろ一生懸命働いているわけですが、進んでいく先の道でよろしいんですかということです。自分の思いはいろいろあっても、世の中は流れて動いていますから、否応もなくそこに巻き込まれていくわけです。それでいいんですか?
私は、昔は何とも思わずに使っておったんですけれども、「人生」という言葉に最近はちょっと引っかかるようになってきました。人の一生を「人生」というでしょう。ところがこの人生という言葉を、仏道、仏さまの言葉では何というのかというと「生死(しょうじ)」と呼んできました。具体的にはどういうことかというと、四苦八苦という言葉がありますが、その四苦「生・老・病・死」のいちばん最初と最後をつづめて「生死」というんですね。私たちの先輩はそう捉えてきたんです。「老いることも、病むことも、死ぬことも私の人生です。私にとって大事なことです」と受け止めてきたんですね。
ところが、「人生」というふうにしてしまうと、この「老病死」の三つが隠れてしまうんですね。だから老病死は私たちにとってイヤなものだから、これは無くしていく、それこそ「イノベーションで技術開発されていけば、「生」だけが残ってすばらしいでしょう」という発想なんでしょう。
確かに今までは治らないとされていた病気も、少しずつ治るようになってきました。最近ノーベル賞をもらった本庶佑さんが、「免疫のはたらきを利用することによってガンがやっつけられますよ」という発見によって受賞しましたね。「老い」はどうですか。テレビのコマーシャルでいっぱいやってますねサプリメントとか。
「死」だけは、まだなんとも避けられないということがありますけれども、でも昔と違って現代の私たちは、「死んだらおしまい」というふうにいつの間にか洗脳されてしまっているんじゃないでしょうか。だからお墓も、後の人が困るから灰にして海にまいてしまおうとか、法事なんかでも、死んだらおしまいだから、葬式だけで後は結構ですとか、なんとなくそういう空気がヒタヒタと浸透していってる感じがありますね。
いちばんよく使うのが、「子どもたちに迷惑をかけられないから」ということを言うわけです。結局、でも現実は老いや病や死が出てくる、いろんなことが自分でやれなくなった時に、子どもたちに迷惑をかけられないから、どうするの? 「それはやっぱりたくさんお金を持ってなきゃ」そういうふうに私たちはすぐ考えるようになっているんじゃないですか。
「生きる」ということが“いきいきと元気で生きていることだけが人生だ”ということになれば、老病死は邪魔になります。でも現実的にはまだ老いも病も死もあります。そうしたら、それを引き受けて行くということは、「いきいき元気で」というところからだんだん遠ざかっていきます。それをお金でなんとか解決しようということになると、お金はタダでくれるわけじゃありません。稼がなけりゃなりません。稼げるうちはいいけれど、稼げなくなったら「オレはいらん人間だな」と考えざるを得なくなります。そうすると年をとるということは実につまらんことになってしまう。「自分はダメなんだ」というふうに思ってしまうことになるでしょう。
ほんとうにそれが私たちの望んできたことですか?ここが立ち止まるかどうかの非常に大事なところなんです。世の中はどんどん変化していきます。私たちが無批判にそれを受け入れていけばどうなるか。「役に立たないあなたはもういりませんよ」ということになるでしょう。
だから安倍さんが言う「この道を~」という道を行けば、「年を取ったら、あんたはもういりませんよ。どうぞ早く消えてください」ということが裏にくっついているんです。いつの間にか、私たちはそれを当たり前だと思ってしまっている。
それに対し「そんなバカな!」というのが「生死いづる道」という、親鸞聖人がたどり着いた仏道、お念仏の教えなんだと思うんですね。
羽向先生は、とても大事な指摘をしてくださっていると思います。仏法聴聞とは、教養を身につけるとか、心の持ちようなどではなく、実はこのように私たちにとって他人事だとほっておけない問題に関わるのだということでしょう。この話の続きが気になる方は、ぜひお寺で一緒に仏法聴聞をしましょう。お待ちしています。
秋季永代経法要②
台風の接近で、一度は開催を断念したこの永代経法要でしたが、坊守の強いすすめもあり、また私にとっても、思い入れのある企画だったので、半月遅れとなりましたが、おつとめすることができました。
漫才に入る前に、これまで二人がテレビ出演したものを編集した“えしんりょう”の自己紹介VTRを流してくれたのですが、「なぜお坊さん漫才をやりはじめたのか?」という問いに対し、「近年だんだんとお寺にお参りに来られる方が少なくなっています。漫才という誰にでも分かりやすいスタイルで話すことで、少しでもお寺の敷居を下げ、皆さんに気軽に足をはこんでもらいたい」というようなことを言われていました。今回お二人をお願いしたのも、まさにそういう意図があったわけで、二人の強力な助っ人のお陰で、大勢の方に参加いただけてよかったです。
前半は、二人の息もぴったりでテンポのよい漫才を披露していただき、皆さんも二人の掛け合いに大笑いしながら耳を傾けていました。M-1グランプリにも挑戦しているだけあって、かなり攻めた話題も入れ込んであって、しかも観客を置き去りにしない絶妙なトークはさすがだなあと思いました。
休憩をはさんでの後半は、二人のフリートークだったのですが、「せっかくだから何か聞きたいことはありませんか?」との問いかけに、すかさず「どういうきっかけでお坊さんになったのですか?」という質問がありました。二人にとっては予想外の展開だったようですが、恵信さんが9歳の時に得度(お坊さんになること)をした時の、おじいさんとのやり取りなど、涙と笑いを誘う話術など、アドリブで見事に切り返すのにも驚きました。
好青年の“えしんりょう”の漫才は「笑い」という形をとった見事な説法になっており、お寺のイメージアップにはものすごい効果があると思いました。またいつかお願いしたいと強く思いました。
明和小学校の行事 “親子ふれあいウォークラリー”
朝晩は寒さも感じる秋本番となったこの日、明和小学校のこの時期の恒例行事“親子ふれあいウォークラリー”が行われました。この行事は、学区の史跡や商店、工場などを親子でスタンプラリーをしながら回り、地元を知ろうという主旨で数年前から行われています。宝林寺もチェックポイントとなっているので、今回は80名ほどの親子連れの皆さんが来てくれました。
B6サイズの簡単なプリントを配り、この地域は内陸にあるのに「根崎」という町名なのは、400年ほど前まで、このあたりが海だったことに由来するとか、矢作川の開削によって耕作可能な陸地が出現し、人々が移り住んできたため村ができ、村人の心の依り所としてお寺を建てる必要があったことなどを説明しました。
このようなごく近くの歴史の話は学校でも教わらないし、大人の方も含めて初めて耳にする内容だと思います。私自身、この地域の郷土史である『明治村史』に目を通すまで、きちんとした根崎町や宝林寺の成り立ちを知りませんでした。
こういう機会に自分の住んでいる地域の歴史を少しでも知ることは、根崎村を作った先人たちの、熱い願いの延長線上に自分が“今”存在しているということを感じられるので、有意義なことではないでしょうか。
また後半では、今年の6月に、当山の本堂で執り行った“仏前結婚式”のスライドも上映したところ、新郎がチリ人という国際結婚だったこともあって、興味津々で見てくれました。他のチェックポイントも回るため、10分ほどの滞在時間ですが、若い家族連れで本堂がいっぱいになるさまは、活気があって良いものです。「みんな大きくなったら、お寺で結婚式を挙げてね」と一言そえて、親子連れを見送りました。
共同学習会①
時おり雨の降る、この時期としては珍しく蒸し暑い一日となったこの日、今年度の共同学習会の第1回目が開催されました。ここ数年は、郷土の歴史や終活など仏教以外のテーマでおこなってきましたが、今回は原点回帰で「わたしの浄土真宗」をテーマとして、初回は安藤智彦先生にお話をいただきました。
安藤先生には毎年法話に来ていただいていますが、特に今回は「わたしの浄土真宗」というテーマでお願いしたので、先生がこれまで歩んできた中で、つまづき悩みながらも、励まされ歩み続けさせられた様々な出遇いがあったことなど、個人史的なお話が伺えたのが良かったです。なるほど、そういう経緯があって今の安藤先生があるのだということが何かうなずけたような気がします。
中でも印象深かった、先生のお寺のご門徒さんで、お寺の同朋の会(聞法会)にも熱心に参加されていた“Kさん”という方についてのお話を少しご紹介します。Kさんは大正6年生まれで、戦争経験もある方でした。背中にはその時に負った傷があったそうです。戦地でのことは、家族にはあまり話されたことはなかったそうですが、兵隊さんにとっては背中に傷を負うということは敵に背中を見せたということになるので、不名誉なこととされていたそうです。
また後に、交通事故で息子さんを亡くしたりと、思いがけない出来事に翻弄され、自分ではどうしようもない深い空しさを抱えておられたところ、たまたま同朋の会に参加して、先生の言葉によると「聞法にハマってしまった」のだそうです。それ以降Kさんは、自宅の仏間での朝夕のおつとめとお寺での聞法が、人生でなくてはならないこととして、文字どおり本願念仏の教えが生活と一つになっていることを示してくれたのでした。
Kさんは、京都の本山(東本願寺)へも熱心に足を運ばれました。特に年末の恒例行事「お煤(すす)払い」へは10年以上連続で参加されて、大谷派教団の責任者である宗務総長から感謝状を贈られるほどだったそうです。
そんなKさんでしたが、晩年は足腰が弱くなり、耳も遠くなってきたので、先生は「きっとお寺からは足が遠のいてしまうだろう」と思ったそうです。ところがKさんは「黒板に書いてくれれば、何を話されているか分かるから」と相変わらず熱心にお寺に通われたのだそうです。
余談ですが、安藤先生の法話でいつも感じるのは、板書の時、いつもきれいな楷書で丁寧に書かれるのです。僕は、画数の多い字は略字で書いたり、和讃などは書く文字数が多いので、走り書きのような字になってしまうこともしばしばです。安藤先生がいつも丁寧に書かれるのは、性格もあるのでしょうが、きっとこういう出来事があったからかもしれないなと思いました。
その後Kさんは、とうとう完全に耳が聞こえなくなってしまい「さすがにもう来られないだろう」と思ったそうです。しかし何とお彼岸の法要に、奥さんに支えられるようにして本堂に現れたのだそうです。先生が内陣の竪畳(たてじょう)に座り、参詣席の様子をうかがうと、お経が終わって正信偈のおつとめが始まった時、奥さんが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と、おつとめに合わせるように横に座ったKさんの背中を叩いてリズムをとりはじめたのでした。それをたよりにKさんは大きな声で正信偈のおつとめをされたそうです。その姿を見て、先生は涙が溢れてきたと言われました。
普通だったら「耳が聞こえないから、お寺に行くのはもうやめておこう」となるところだと思うのですが、聞法ということは、ただ単に音声で法話を聞くということではないということを、Kさんの姿から教えられたと言ってみえました。
先生が、いよいよ入院生活に入られたKさんを病院に訪ねた時、Kさんの足もとのところに手作りの看板のようなものがベッドに括り付けられていたのに気がついたそうです。何が書いてあるのかと見てみると、
他を咎(とが)めんとする 心を咎めよ 清澤満之
と書いてあったそうです。最晩年になっても、以前、聞法会で聞かれて心に残った言葉を、自分で筆で書いて毎日眺めておられたんですね。
「以前、息子さんの交通事故の話になった時、『相手があるというのは辛いね』ということを仰っていました。私たちは何かうまくいかないことがあると、他人のせいにしたり、咎める心『あのことさえなかったら、こんなふうにならなかったのに』という気持ちが沸き上がってきますね。おそらくKさんにも、そういう心に苦しめられることがあったはずですが、生涯にわたってそんな自分と向き合いながら、まさに全身で聞法している姿を見させてもらって、『わたしの浄土真宗』ということでいえば求道、こういうふうにして道を求めていくんだなぁということを教えられたという気がするんです」と言われたのが印象的でした。
共同学習会 第2回目は、10月26日(金)午後3時~5時におこないます。お話は杉浦智見 師(豊田市 浄覚寺住職)です。今回初登場ですが、独特の感性を持った注目の先生です。ぜひご参加ください!
お彼岸ライブ in 宝林寺
動けば少し汗ばむほどの陽気となった秋分の日、当山本堂において、今回初めて「お彼岸ライブin宝林寺」という音楽ライブを行いました。この企画は、私(知見)の大学時代の友人で、現在奈良に住んでいるRIKENさんからの申し出により計画がスタートしました。
RIKENさんは、サラリーマンをしながら大阪を中心に月に10本ものライブ活動をしているのだそうです。(驚)そんな中で、お寺を会場にしたライブをやりたいと思い立ったそうで、今年の6月下旬に、それなら友だちが住職をしている宝林寺でということで連絡をいただきました。私としても、ふだんあまりお寺に足を運ぶ機会の少ない方にも来ていただけるきっかけになるので、ぜひ実現しようということになりました。
しかし、この地域にまったく縁のないRIKENさんのライブといってもなかなか足を運んでもらいにくいだろうということで、もし地元で音楽活動をされている方があれば、一緒にやりたいという提案だったので、2年前にお父さんを亡くされて、葬儀やご法事などでここ最近お会いする機会が増えてきた、根崎町在住で、ギタリストの磯村幸平さんに相談したところ、出演を快諾していだきました。(磯村さんには当日のライブの機材なども提供いただきました。)さらにRIKENさんがライブの追っかけをしているという、大阪のラグタイムブルース奏者、亀井岳彦さんも加わってくれることになり、出演者の豪華なラインナップが完成しました。
回覧をまわしたり、お店などにポスターを貼らせてもらって宣伝したつもりでしたが、当日は開演30分前になっても一人もお客さんが現れず「誰も来なかったらどうしよう」と焦りました。「そうだ。客寄せに梵鐘(釣り鐘)をついてみよう!」と出演者が順番に祈るような気持ちで鐘をついたのが功を奏したのか、お客さんが次々に現れて3時の開演時には客席もだいぶ埋まったのでホッとしました。
RIKENさんの温かみのある歌とトークで、客席から自然と手拍子も起こり良い雰囲気でライブが始まりました。磯村幸平さんによるキレのあるギターと歌声で盛り上がり、最後は亀井岳彦さんの、ベテランらしい重厚な演奏と独特な歌声に、聴衆も聞き惚れていました。
手探りではじめた今回の企画でしたが、出演者も聴衆も、お互い充実した時間を過ごせたという満足感を感じてもらえたのではないでしょうか。皆さんの反応も良かったので、また音楽ライブは計画したいです。
※ RIKENさんがFacebookに今回のライブのレポートを書いてくれました。
秋の教化委員会が開かれました。
小雨模様となったこの日の夜、秋の教化委員会を行いました。この会合には当山の役員・寺世話方・本山世話方・婦人会役員・教化委員といった役職の方30人ほどに集まっていただきました。今回は、10月に行う「共同学習会」や、お寺における最近の課題について話し合っていただきました。
宝林寺では、鉄筋コンクリート造りの本堂と山門の塗装工事のための積立金として、修繕事業費という名目で町内檀徒の皆さまに毎年この時期にお集めをさせていただいておりますが、いよいよ来年本堂の塗装工事を行う予定です。
また、先日の台風20号・21号により、庫裏・本堂・お非時場などが被害に遭ったことも報告させていただきました。(こちらを参照ください)建物の老朽化の影響もあってか同時にあちこちが壊れるという現状で、いま修理の見積をお願いしているところですが、かなり大がかりな工事が必要だと思います。台風の大型化や今後地震なども予想される昨今、これからは施設の維持管理の問題が大きくなっていくと思います。
壊れたものは直していかなければなりませんが、皆さまにとってお寺が、将来にわたって継承すべき大事なものであると思っていただけるよう、努めてまいりますので、何卒ご協力くださいますようお願い申し上げます。
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
時おり雨が降る、湿度の高い一日となったこの日、婦人会秋季彼岸会がつとまりました。この春から新メンバーとなった婦人会役員さんたちは、先だって行われた仏具のおみがき奉仕に続き、前日より仏華立て、お斎の準備などをしていただきました。今回の役員さん達もチームワークが良く、今回が2回目の行事とは思えないほどスムーズに彼岸会を進行することができました。いろいろ配慮いただきありがとうございました。
おつとめに続いて、稲前師より午前・午後と法話をいただきました。今回もプロジェクターを使用して、かゆいところに手の届く丁寧なお話で、皆さんもうなづきながら聞法をされていました。
毎回思うことですが、稲前先生はよく人の話を聞いているなぁと感じます。何気ないお参り先での会話や、家族とのやりとりを、教えに照らして話してくれるので、日常こそ自分を教えられる聞法の現場であることをあらためて教えられます。
私たちは案外、自分のすがたが見えていないという一例として話されたのは、卓球をやっている中学生の息子さんが、テレビで卓球の試合が中継されているのを見ながら「あぁ、あんな所にレシーブを返してちゃダメだ」、「あんなサーブを打っているようでは勝てるわけない」などとブツブツ言うのだそうです。彼が部屋を出て行った時、先生が奥さんに「何であんなに文句を言いながらテレビを見てるんだろうね」と言ったら、彼女は「お父さんのマネをしているだけしょう」と言われて愕然としたそうです。自分自身でも気づいていなかったそうですが、テレビを見ながら無意識に文句を言っていることがあると指摘されて驚いたのだそうです。私自身もニュースを見ながら「だから安倍じゃダメなんだ!」などと言っているので稲前先生を笑えません。同世代の方、身に覚えがありませんか?
また、法話の中で、作家の高 史明(コ・サミョン)さんの中学1年生の息子さんが自死された話をされましたが、このお話は以前、当山の報恩講で渡邉晃純先生も紹介して下さったことがあり、特に印象に残っているエピソードの一つです。当時のノートから少し引用してみます。
そのころ私は、子にどのようなことを勧めていたか。例えば、その子が中学1年生になり、入学式が終わった夜の事、私は中学生になった子を祝って大真面目に言ったのである。「今日から君は中学生だ。これから君は自分のことは自分で責任を取るようにしなさい。ただし他人に迷惑をかけないようにすること。他人に迷惑をかけず、自分の身を自分で責任を取るならば、お父さんはこれから一切君に干渉しないようにしよう」これが、その時の私の大方の発言の内容である。
私はこれが、子の幸せに通じると思っていた。しかし「他人に迷惑をかけるな」とは何であったか。私はその時に、この言葉によってそれまでに子の心身に蓄えられていた、他人との生きた連なりをバッサリと切り取ってしまったのである。いや、それだけではない。それは生きとし生けるものとのつながりを全て切り落としてしまうことでもあったというほかない。いったいこの世に生きていて、他人や他の生きものの助けを全く受けないで生きるということがあり得るだろうか。(中略)
子が中学生になった時、私が子に与えた言葉は深い闇をはらんでいた。私は違う言葉を与えるべきだったのである。「君は今から中学生だ。ここに来るまでにどれほどの人に迷惑をかけ、助けをいただいてきたことか。人間だけではない。どれほど多くの生きものの助けをいただいてきたことか。今こそそれをしっかりと知って欲しい。それこそが、自分のことを自分で責任をとることの始まりになるのだ」と言うべきであった。私はしかし、それは言えなかったのである。何故か。全てを自分中心に見る、自分の知恵に惑わされていた。
「迷惑をかけるな」という言葉をそのまま実行するならば、あらゆるものに頼らず、何でも自分一人で解決しなければなりません。一見立派な態度に見えますが、これはとても孤独な生き方なのではないでしょうか。また「自分は誰にも迷惑をかけていない」と胸を張るのは、いかにも自分のことが分かっていない姿でしょう。
反対に、自分が迷惑をかけてきたか分かるということは、どれだけ多くの人のお陰を被っているか分かるということで、だからこそ、自分も他の人も敬うことができる、豊かな生き方だと言えるのではないでしょうか。これこそ親鸞聖人の言われる「他力の信を得る」ということの内容なのだと思います。
しかし、一度気がついても、私たちはすぐに日常に埋没して自己中心的なあり方に戻ってしまいます。だからこそ、自分の姿を鏡で見るように、聞法を通して自分を知らされ続けていく習慣を、先輩たちは私たちに残してくれたのだと思います。
仏具のおみがき奉仕をしていただきました。
最近は、家庭のお内仏(仏壇)では、仏具も、おみがき不要のコーティングが施されているものも多く、曇りやすい真鍮製の仏具を磨くということも少なくなっていると聞きます。しかし、クリーム状の金属磨きをウエスに少量とって力を入れて磨くと、鋭い光沢が出てきてなんともいえない達成感があります。
また、向かい合って作業をしながら世間話ができるのも、共同作業のいいところだと思います。各家庭で勤められるご法事の食事も、最近は外食する場合が多いですが、以前は親戚の女性の方が集まって手作りで作られていました。食事の支度をしながら交わす会話が、お互いの距離を縮めるきっかけともなっていたと聞きます。一見、面倒にみえるお寺の行事のお斎づくりやおみがき奉仕も、そういう側面があるのではないでしょうか。
この秋も、婦人会秋季彼岸会や永代経法要などの行事が続きます。きれいになった仏具で、気持ちよく行事を迎えることができます。婦人会のみなさん、どうもありがとうございました。m(_ _)m
小学校の行事 “親子ふれあいウォークラリー”が行われました。
この日は、11/15から始まる報恩講のため、本堂ではお華立ての作業が始まっていました。この作業は、いったい何をしているのか分かってもらう必要を感じたため、せっかくなので昨年の報恩講の様子をテレビモニターにスライドショーで映して説明をすることにしました。
昨年の様子を見直すと、あらためて大勢の皆さんの協力によって報恩講が成り立っているんだと感じます。お華立てやお華束づくりが完成した写真には、担当の方の「今年も無事に作業ができて良かった」という満足そうな笑顔があったり、みんなで食べる楽しそうな食事風景は、お寺にとっても未来に受け継いでいきたい大切な財産です。
また後半には、冬休みに行う“子ども報恩講”の様子も紹介することができたので、まだ参加したことのないお子さんや、お父さんお母さんにも様子を知ってもらうよい機会となりました。
今年の報恩講に向けて、準備もいよいよ最終段階です。大勢の皆さんのお参りを心よりお待ちしております。
報恩講にむけて仏具のおみがきと清掃奉仕をしていただきました。
久々の晴天となった日曜日の早朝。年間最重要の行事 報恩講に向けて、仏具のおみがきと、境内の草取り・ガラスふきなどをしていただきました。この日は作業の始めこそ寒さを感じましたが、身体を動かしていると汗ばむほどの陽気となり、担当いただいた方も手際よく作業を進めてくださいました。
もう20年も前、私が勤めていた北海道余市町の即信寺のご院さんに「準備も報恩講だから」と、私が宝林寺の報恩講のため帰省するタイミングを、法要の日程の数日前から休みを下さったことを、しみじみと思い出します。あれから随分と時間がたってしまったけど、ふと懐かしさを覚えます。
まだまだ、準備はこれからが本番ですが、皆さんと協力して報恩講を迎えられるよう気を引き締めていきたいです。
岡崎教区“こころの講演会”つボイノリオ氏の講演会(Facebookより転載)
【会 場】三河別院本堂
三河別院でのつボイノリオさんの講演会、聴いてきました!
悪天候の中、大きな本堂が満堂になる人出で、さすがにこの地方の人気ラジオパーソナリティですね。
つボイさんは、大谷派の門徒の家に育ち、先日59歳で亡くなられたおばあちゃんの50回忌を勤められたと言われていましたが、このおばあちゃんに連れられて、小学生の頃からお寺のお説教を聞いておられたそうです。節談説教の大家 祖父江省念さんや、現代の大谷派の学僧の重鎮 池田勇諦先生のことも口まねを交えながら話されていましたよ。
しかもただの口まねではなくて、池田先生がある聞法会で参加者の方から質問され、それに答えるという設定で「正信と傍信」についての法話をするのを池田先生の口調で再現するというものでした。これが「あぁ、池田先生ならそういう話をしそう」と思わせる出来映えで、つボイさんは、きっと本当に何度も池田先生の法話を聞いたんだろうな、と感じました。
ほぼ2時間休みなしの講演でしたが、ラジオと同じ声で話される豊富な話題に、あっという間に時間が過ぎたという印象でした。加計学園の問題で有名になった文部科学省の元事務次官 前川喜平さんにも感じたことですが、つボイノリオさんも、間違いなく仏教徒の自覚を持って生きておられるなぁと感じ、勇気づけられる思いでした(^-^)
共同学習会②「もしもに備える(相続)」が開催されました。
【期 日】平成29年10月13日(金)午後7時~9時
【テーマ】「もしもに備える(相続)」
【講 師】畔柳浩樹 氏(畔柳税理士事務所)
先週に引き続いての共同学習会。第2回目は、根崎町内在住の税理士 畔柳浩樹さんに“相続”をテーマにお話しいただきました。葬儀をテーマとした先回よりも参加者が多く、皆さんの関心の高さを感じました。
畔柳さんは、こういうセミナーの講師を務めるのは今回が3回目だそうで、「今週はだいぶ緊張しながら過ごしました」と言っておられましたが、堂々とした話しぶりで、皆さんも真剣に聞き入っておられました。
専門用語を噛み砕いて平易な言葉で説明してもらったので、予備知識のほとんどない私でも、遺産相続の目安となる法定相続人の資格や順位など、相続のあらましをある程度大づかみすることができました。まあ「めんどくさそう」というのが正直な感想ですが・・・(-_-;) だから税理士や行政書士などの専門家がいるわけですね。
チラシのサブテーマに「相続が争族にならないために」という一文を入れたのですが、遺産相続をめぐって、親子兄弟でも仲違いをして、例えば法事などでも同席できなくなってしまうケースが、この地域でも実際にあるのです。そうなってしまう原因の一つとして、意外にも「兄弟はみんな平等」という考え方が浸透してきたからだといわれます。いったい、どういうことでしょうか?
今回の参加者の多くは60代・70代の方々で、この世代の方々が親の遺産を相続する時には「同居する跡取りは、親の面倒を見るのだから多くを相続し、外に出た子どもは、そもそも嫁入りや分家の時に贈与を受けているのだから、ハンコ代として数十万円で納得」という場合が多かったそうです。
しかし現在は、相続を受けるタイミングで、自分の子どもの学費や家のローンを抱えている場合も多く、余裕がないため、「もらえるなら少しでも多く」と考える方も多いと聞きます。むき出しの思いが互いにぶつかれば、引き際を見失うということは容易に想像できるでしょう。これは相続を受ける個人の人間性の問題というよりも、現代社会のしくみの問題だといえるのではないでしょうか。
結論としては、争族にならないためには、遺産を残す側が早めに準備に取りかかり、相続人同士で後からもめないように、自分の意思をはっきり伝ることだと言われました。自分の死後、子供達の大喧嘩を望む親はないはずです。子供は親に対して、なかなか相続の話題を持ちかけにくいので、親御さんの方が配慮してあげることをオススメします、とのことでした。
共同学習会では、これからも仏教や真宗に関連した話題に限らず、時代社会の抱える課題に即した企画をしていきたいと思っています。取り上げて欲しいテーマなどがあれば、お聞かせください。また講座を開催する時期(曜日や時間など)についてもご意見をいただければと思います。
共同学習会①「もしもに備える(葬儀)」が開催されました。
あいにくの雨となったこの日、恒例の夜の講座「共同学習会」の第1回目が開催されました。毎年さまざまなテーマを扱うこの学習会ですが、今年は「終活」をテーマに2回おこないます。今回は“葬儀”について終活カウンセラーの伊藤信子さんに、最近の葬儀の事情などについて伺いました。
伊藤さんは、5、6年前から終活セミナーを各地でおこなっているそうですが、最初は周囲から「葬式の話なんて縁起でもない!」という拒絶反応がかなりあったそうです。しかし「エンディング」という言葉が世間に認知されるようになったり、TVドラマ『やすらぎの郷』のヒットによって、皆さんの反応も変わってきたといわれます。ほんの10年ほど前は葬儀社のTVコマーシャルも殆どありませんでしたが、「明朗会計」、「生前見積もり」、「家族葬」とさかんにTVで喧伝され、これらの言葉が一般的になってきました。さらにインターネットの普及によって誰でも葬儀の情報が簡単に手に入るようになって、今までタブーとされてきた“葬儀の話題”が身近になったといえるでしょう。
「子どもに迷惑を掛けたくない」、「葬儀で隣組や仕事関係の煩わしい付き合いは避けたい」というイメージが先行している昨今ですが、伊藤さんは、なるべく小さな葬儀が良いという風潮は、ちょっと考えてみる必要があるのではないかといわれます。「香典を受け取らない」という方法も、確かに煩わしくないというメリットがある反面、収入がないため葬儀費用は全部持ち出しになります。本来は、お布施を除いて、御香典で葬儀費用がまかなえるようにバランスさせられるはずなのに、「葬儀費用を用立てる生命保険に加入する」というのは本末転倒ではないでしょうか。
昔と違って、会社員など勤め人の方が多い今日、家族であっても、故人がどういう経歴を経てきたのか、どういう友だちや仕事関係の人と関わり方をしてきたか知らない場合が多いと思います。葬儀は、家族が知らないそれらの方々と共に故人を悼むことを通して、あらためて「故人はこういう方々と関わってこられたのか」ということを知る大事な機会です。葬儀を通して、家族とはまた違った視点での故人の姿を教えられることによって、亡き人のことについてより理解を深められるのではないでしょうか。
参加者に配布された「エンディングノート」には、どういう葬儀を望むのか、親戚の続柄と氏名、自分の葬儀の際に誰に連絡して欲しいか、財産などがどうなっているか、など喪主をつとめる方にとって必要な情報が記入できるようになっています。“終活”は、親の世代の「葬儀で迷惑を掛けたくない」という一方的な思いだけでなく、エンディングについて家族で話し合うことで、自分の死後までを視野に入れた人生設計をしていくきっかけにできるのではないかと思いました。
次回は、10/13(金)午後7時より「もしもに備える(相続)」をテーマに、町内の税理士 畔柳浩樹さんからお話を伺います。いろいろ質問にも答えていただけると思うので、この機会にぜひご参加ください。
※ 今回は、真宗の葬儀についても住職から少し説明させていただきました。
詳細についてはこちら
秋季永代経法要がつとまりました。
さわやかな秋晴れとなったこの日、午前・午後の日程で秋の永代経法要がつとまりました。年度初めに作って皆さんにお配りしている、当山の年間行事の一覧では、今回の午前の部のご法話は、境 昭英先生(刈谷市 泉正寺前住職)の予定でしたが、病気加療中ということで、法要の役僧さんとしてお願いしていた小栗貫次さんに急遽ご法話もお願いしてやっていただきました。この時期の土日は、季候が良いということもあって、皆さんがよくご法事を勤められるため、日にちが迫っている中で代理の講師を探すのはなかなか大変です。今回は、小栗さんが快く引き受けてくださったので、なんとか穴を開けずに午前のご法座をつとめることができました。
さて、今回は初の試みとして、午後の法要の後は、根崎町内在住の社会人落語家 お好味家喜楽さんと、お弟子さん2人による落語会を行いました。喜楽さんは、地元よりも根崎町外や安城市外でこれまで落語会や落語教室をたくさんされてきているのだそうです。これまでなかなか地元で磨いてきた落語の技を披露する機会がなかったので、今回のオファーについても快く応じていただくけました。
最近は、空前の落語ブームということで、テレビでもよく落語を題材とした番組を見かけるようになりましたが、この地方では間近で生の落語を見る機会はなかなかありません。ふだん、お寺のご法座ではあまりお顔を見かけない方の姿も何人かあって、皆さんもこの企画に期待してくれているのを感じました。私自身もとても興味深く、また期待して今回の落語会を拝見させてもらったのですが、出演者は三人三様で持ち味をいかした、期待を裏切らない素晴らしい出来でした。
特に師匠の喜楽さんは、落語に入る前の“枕”をしゃべりながらお客さんの反応を探り、その場で一番みなさんに受け入れられそうな話をされるという、プロ顔負けの技術があります。すっかりその場を自分のモノとしてしまう様子には驚かされました。また、とにかく言葉だけで相手に話の世界に入ってもらわなければならないので、言葉をはっきりと滑舌良くしゃべることの大切さを感じました。私も人前で話をする機会もたまにあるのですが、ついつい早口になってしまったりすることがあります。そういう意味でも人前で話すことの心構えなど、あらためて考えさせられる機会となりました。
皆さんの反応も良かったので、今後も落語会はぜひ続けていきたいと思います。今回お参りできなかった方も、まだ予定は未定ですが、次回にご期待ください!
秋季教化委員会が開催されました。
ようやく秋らしく朝夕は涼しさを感じるようになったこの日の夜、寺の役職者の皆さんに集まっていただき秋の行事について協議していただく教化委員会を行いました。宝林寺では、秋と夏の2回、この教化委員会という会議をお願いしています。
今回の議題としては、毎年10月の夜に開催している、共同学習会についての説明と役割分担についてです。この共同学習会は、もともと前住職の発案で、寺の役職者や声明会の皆さんなど、日ごろ寺の行事に協力いただいている皆さんに、寺のお手伝いだけで任期を終えてしまうのは勿体ないので、学習の機会を持っていただきたいという事で、もう20年以上続けられています。役職者の皆さんの中には、まだ現役で仕事をされている方や、家庭の主婦の方も多いため、なるべく参加しやすいように、あえて夜の時間に開催してきました。以前は、年中行事の法要で法話をしていただいている僧侶の方々に講師をお願いしていましたが、ここ数年は安城市歴史博物館や半田市の新美南吉記念館の学芸員さんにお話をいただき好評をいただいています。
今回は、“終活”をテーマに、終活カウンセラーや、相続の専門家である税理士の方にお話いただく計画をしています。私も2回ほど終活講座を受講したことがあるのですが、平日の午後の開催ということもあって、参加者の顔ぶれは現役を離れた70代くらいの方が多かったように思います。今回は夜の開催なので、できれば40代50代の方にも参加いただけるといいなぁと考えています。大事だと思いつつも、なかなか真向かいになりにくい話題かと思いますが、葬儀社や金融機関の主催ではなく、お寺で開催することに意義があると思います。今回の企画では、私も住職の立場から、普段の葬儀では、時間の関係でなかなか詳しく説明することができない葬儀の意味や、儀式の中で何をやっているのかなどの解説もしていきたいと思っています。
また、昨年の夏頃よりこの「宝林寺ホームページ」を運営していますが、まだ認知度が低く、なかなか皆さんに浸透していません。そこで今回はプロジェクターを使ってホームページの宣伝もさせていただきました。最近の傾向でシニア世代の方々もインターネットに馴染んで、ネットショッピングやSNSなどを楽しまれている方も多いので、インターネットを通じて寺の情報も積極的にお知らせしていきたいです。これからもご支援ご協力をお願いいたします。m(_ _)m
岡崎教区第15組 門徒会上山奉仕研修
特に池田先生は、私が専修学院というお坊さんの養成学校に行っていた頃からの知り合いで、懐かしい話もたくさんできました。いつも思うのですが、本山に来ると、懐かしい顔や思いがけない人に遇ったりと、ここでしか味わえない不思議な感覚があります。
二日目の清掃奉仕では、皆さんのリクエストで新しく修復されたばかりの御影堂門に上ることができ、皆さんも滅多に拝見することのできない釈迦如来像を見て感激しているようでした。
午前中に解散式を終えて、昼食は渉成園(枳穀邸)で、泉仙の「鉄鉢料理」といわれる精進料理(3,800円)で、ちょっとリッチな一時を過ごすことができました。その後、東山の将軍塚にできた新名所、青蓮院青龍殿の舞台から見える素晴らしい眺望を堪能し、帰途につきました。
講義座談は、今回は日程の関係でとても時間が短くて少し残念でしたが、池田先生が用意してくださったレジュメより、気になった一文をご紹介します。
『人生列車』(作:吉川英治)
吉川英治の代表作は『宮本武蔵』でしょうが、彼は『親鸞』も書いています。もと新聞小説だったので、連載中はさまざまな反響が読者から寄せられたそうです。中でも辟易したのは、真宗の坊さん達からの、小説で語られる真宗の教えについての細かい批判だったそうです。そういう人、今でもいっぱい居そうです。(-_-;)
もう一つ、池田先生のレジュメより。
婦人会秋季彼岸会がつとまりました。
この日はあいにくの雨模様の中、婦人会秋季彼岸会が勤まりました。婦人会役員さんたちは、日曜のおみがき奉仕、月曜のお斎準備と本堂のお華立てにつづき、早朝よりお寺に集まって昼食の準備などをしてくださいました。
2年の任期も後半になってきて、みんなで協力し合いながらの食事準備もすっかり慣れた様子で、お昼には、ちらし寿司とお吸い物、副菜に加えてデザートのコーヒー寒天まで、どれも美味しく作っていただきました。丁寧な仕事をしていただき、どうもありがとうございました。
今日は午前・午後とも、おつとめの後、稲前恵文先生にご法話をいただきました。稲前先生のご法話は、10年ほど前からだと思うのですが、あらかじめ原稿をパワーポイント(プレゼンテーション用のパソコンソフト)で作成しておいて、プロジェクターでスクリーンに投影するという方法でやっていただいています。板書の場合は、短い文章や簡単な図を描くのが精いっぱいですが、この方法だと、まるで大きな紙芝居のように、長めの文章や、画像なども次々と画面を切り替えて投影していけるので、相当な情報量となります。
難しい言葉の註釈も必要十分に施してあって、まさにかゆいところに手の届くという言葉がぴったりです。ここまでパソコンで作り込んで法話をする先生は、おそらく全国的に見てもあまり多くないと思われます。稲前先生の、時おり笑いの要素も入った軽妙な話術もあって、午後からのご法話も、午前とほぼ変わらない人数の方が聴聞してくださいました。
このことは実はそんなに特別なことではなくて、多くの方がしばしば経験済みのことなのです。しかしこの“驚き”が、真宗でいう信心と関係があるということは、やはり聞かせてもらわなければ、なかなか分からないでしょう。またある程度、聞法の回数を重ねて真宗的な発想に慣れることも必要だと思います。聞いたことを忘れてしまうのを苦にする必要はありません。いろんな先生のお話を聞く中に「そういえば、あの先生も同じようなことを言っていたな」と思い出すこともあるでしょう。真宗の聞法は、教えを聞いて、その知識を身に付けて立派な者になっていくという話ではありません。分かっても分からなくても聞法を続けていく。このことの大切さをあらためて思います。
それにしても稲前先生は、お参り先での出来事や、家族とのやり取りをよく観察しているなぁと感心します。日々の暮らしの中の、何気ない出来事なんですが、「あぁ、そういうことってあるよね」と誰もが共通体験を持っているようなお話です。なので幅広い世代の方に聞きやすく、あっという間に時間が経ったという感じでした。特に若い方にもとてもオススメの先生ですので、来年度も年間行事予定のどこかのご法座でお願いする予定です。ぜひお参りしてくださいね!
おみがき奉仕をしていただきました。
【担 当】婦人会役員・21~27班(西根)の連絡員さん
9月に入り、朝などは寒いくらいの気温で、急に秋の気配が感じられるようになりました。この日は早朝より、秋の行事に向けて婦人会役員さん達に、おみがき奉仕をしていただきました。仏具のおみがきは年に4回ほどお願いしていますが、3ヶ月に一度くらいのペースで磨くと、真鍮製の仏具も酸化の進み具合がそれほどでもないので、比較的短時間できれいに磨き上げることができます。金属磨き“アルボン”を少量ウエスにとって磨いた後、最後に新聞紙で仕上げ磨きをしていきます。ピカピカになった仏具は、まるで本物の金のようです。これで秋の行事が迎えられます。婦人会の皆さん、ご協力ありがとうございました。
共同学習会②
先週に続いての共同学習会の2回目、「南吉と戦争」と題し、遠山先生にお話を伺いました。南吉が安城高等女学校の経師をしていた昭和13年から17年の間は、(南吉25歳~29歳)日本は日中戦争(昭和12年7月~)から国家総動員法公布(昭和13年4月)、太平洋戦争(昭和16年12月8日~昭和20年8月15日)へと突き進んでいった時代とぴったり重なっています。
いよいよはじまったかと思った。何故か体ががくがく慄(ふる)へた。ばんざあいと大声で叫びながら駆け出したいような衝撃も受けた。(中略)ラジオは終日ニュースの間に軍歌を奏しつづけた。まるでお祭り気分で戦争に入っていった。
『十二月八日』 高村光太郎
それから、驚いたのは、南吉作品の中でも反戦色の強い『ひろった らっぱ』(昭和10年執筆、南吉21歳。発表されたのは南吉死後の昭和23年)の絵本が、今年の4月にあらたに出版され、最初の原画展を沖縄でおこなったのだそうです。
最近読んだ、『愛国と信仰の構造』(集英社新書 中島岳志・島薗 進 著)では、戦時中、日本が全体主義に突き進む中で、親鸞主義者と日蓮主義者が大きな役割を果たしたとの記述がありました。仏教者を自認する人が戦争を推進していく思想の設計に当たり、その根幹部分に真宗の絶対他力の考え方や、日蓮主義者の「八紘一宇」というスローガンが取り入れられていったことなど、改めて宗教と戦争の関わりを考えさせられたのですが、『ひろった らっぱ』を読み解く遠山先生の話にも、同じ感銘を受けました。
たとひ僕の肉体はほろびても君達少数の人が(いくら少数にしろ)僕のことをながく憶えていて、美しいものを愛する心を育てて行ってくれるなら、僕は君達のその心にいつまでも生きているのです。(昭和18年2月9日「佐藤好子宛書簡」)
時代の閉塞感から過激な考え方が一定の支持を得たり、憲法改正に前のめりな現政権の状況をみると暗澹たる気分になりますが、次に続く世代の為にも歴史に学び、同じ過ちを繰り返さない責任があると思いました。 合掌
共同学習会①
毎年この時期に開催している恒例の「共同学習会」。今年は「南吉が安城にいた頃」と題し、安城とも縁の深い児童文学作家の新美南吉を取り上げました。今年は、いつもより気合いを入れて『安城ホームニュース』や中日新聞の「宗教トピック」にも告知をしてもらったこともあり、根崎町内だけでなく市内一円、遠くは名古屋市からも足を運んでくれた方もあり、例年以上に充実した一時を過ごすことができました。
第1回目の今回は「南吉と安城 ~人恋しい南吉を癒やした町~」というサブテーマで、家庭や健康など、決して恵まれていたとは言えない彼が、安城高等女学校に奉職し、そこで出会った様々な人たちとの交流が、精神的に彼を支えていたのだろうという内容でした。それだけでも、安城市民として誇らしく、聞かせてもらって良かったと思います。
今回のお話で気になった点として、南吉の苦難の時代のことです。南吉が安城高女に来る前、半田の杉治商会という大きな飼料会社に勤めていました。当時の杉治商会は国内シェアトップの飼料メーカーでした。この会社の給料の体系は、独身の社員からは給料のうちから強制的に天引きして貯金をさせるという仕組みだったようです。社長の杉浦治作(碧南市出身)は、独特な人間育成の持論を持っており、「若者はお金をたくさん持たせると無駄遣いをしてしまうから、結婚するまでは会社が社員に代わって貯蓄してあげて、結婚後は給料をアップする」という方針だったそうです。この時代の南吉は会社の寮に住んでいたためお金が少なくても生活は出来たのですが、会社に管理された日常や人間関係、現金収入を得て本をたくさん読みたい南吉にとっては、この環境は合わなかったようです。
人間は皆エゴイストである。常にはどんな美しい仮面をかむっていようとも、ぎりぎり決着のところではエゴイストである。─ ということをよく知っている人間ばかりがこの世を造ったらどんなに美しい世界ができるだろう。自分はエゴイストではない、自分は正義の人間であると信じ込んでいる人間程おそろしいものはない。かゝる人間が現代の多くの不幸を造っているのである。(昭和12年10月27日 南吉24歳)
当時の日記には、このような記述があります。いま読んでも大きく頷かざるを得ない内容で、人間は昔から同じことをずっと繰り返してきたのだと改めて思いました。
次回は10月18日(火)午後7時~9時。「南吉と戦争」という講題で第2回を開催します。ぜひご参加いただきたく、ご案内申し上げます。
秋季永代経法要
【講 師】稲前恵文 師(岡崎市本光寺住職)
台風18号の影響か、10月としては珍しく、摂氏30度近くまで気温が上がったこの日、午前・午後の日程で秋季永代経法要がつとまりました。読経に続き皆で正信偈を唱和し、稲前恵文(いなさきさとふみ)師よりご法話をいただきました。
永さんは長年、ラジオで『あなたと どこかで』という番組をされていましたが、晩年はパーキンソン病を患い、ろれつが回らず喋るのも困難な様子でした。そのことで「ラジオなのに耳障りな放送をするのはいかがなものか」との批判の声もあったようですが、こういう思いを秘めながらの活動であったのかと思いました。
歌手 加藤登紀子さん
(中略)
ー 遠藤恭子さんとの『あなたと どこかで』の収録で ー
「永代経」とは、「永代(自分の亡き後)にわたって仏法が説かれ、後の世でも仏法にふれて、みずからの尊さや掛け替えのなさに目覚める人が現れ続けて欲しい」ということで伝統されてきた行事なのだと思います。この事は一つの仏教行事ということに留まらず、具体的な私たちの生活の場面でこそ問題となる事なのでしょう。「戦う心」という一語にあらわされているのは、このことに気付いたたった一人の小さな行動なのだと、永さんのエピソードから教えられたような気がします。
秋季教化委員会
台風16号の接近により 、当初の予定を変更し、お彼岸の中日の夜に「秋季教化委員会」を行いました。
この日も雨模様でしたが、役員・寺世話方・本山世話方・婦人会役員・教化委員の皆さんら20数名に集まっていただき、この秋に計画している「共同学習会」の打合せなどをしました。参加者への呼び掛けと取りまとめ、当日の役割分担などを確認していただきました。
また寺世話方さんには、毎年この時期に依頼させて頂いている修繕事業費のお集めもなどもお願いしました。
このように寺の活動は多くの皆さまのご協力により支えられています。感謝。
婦人会秋季彼岸会
また「心の元気塾」の存在も、二人の歩みを支える大きなはたらきをしてくれていたのでしょう。“場の力”というか、念仏者を生み出すはたらきを「サンガ」というのかなぁと改めて知らされました。
※ 「帰敬式(ききょうしき)」。“釋”の一字が入った法名をいただき、仏弟子となる儀式。私(住職)も「釋 知見」(しゃく ちけん)という法名をいただいています。現在は、本山(東本願寺)だけでなく、別院や一般寺院でも帰敬式が受けられます。関心のある方は、宝林寺までお問い合わせください。
おみがき奉仕
【会 場】宝林寺本堂
【参加者】婦人会役員さん、北根1~7班の連絡員さん
夏の暑さもようやく和らいできたこの日、早朝より本堂にて仏具のおみがき奉仕をしていただきました。お寺の仏具は大きくて数もあるので大勢で手分けしてやっていただくのですが、作業しながら世間話(噂話?)に花が咲き、和気藹々とした雰囲気の中、1時間ほどで仕上げていただきました。
昔読んだ雑誌の相談コーナーで、「彼女と初めてデートするのに、食事はどういうお店に行くのがいいでしょうか?」との質問に、作家で天台宗の僧侶でもある今東光は、「自分で作るお好み焼き屋にしなさい。共同作業しながらなので口下手でも間が持つし、気取らない相手の素顔も見られるから」と回答していたのを思い出します。
ご近所同士でも、近頃はお互い生活リズムが違うし、なかなか気軽に世間話もままならない状況です。お寺の行事に限らずですが、おしゃべりを交えて軽めの作業をしながら、お互いの近況をさりげなく確認できるこういう機会は、実はとても大事なことなのではないかと最近感じています。
担当の皆様、ありがとうございました。