歎異抄講義

現代に生きる仏教


『竹中智秀選集』も刊行されています。


私(知見)の僧侶としての歩みの中で、一つの転換点となったのが、1994年(平成6年)~1995年(平成7年)、京都の大谷専修学院で学んだことでした。この学校の特色は、真宗大谷派の寺院の住職になるための資格である教師資格の取得のため1年間 全寮制で学びます。学院生の年齢もさまざまで、下は高校を卒業したばかりの18才から上は定年退職をした70代の方までと幅広く、さまざまな価値観が交錯するとても刺激的な毎日でした。

学院生も先生も共に寮で生活し、お互いに表も裏も見せながら過ごすわけですからきれい事だけでは済みません。世代間の対立や、他の寮との摩擦、学院生同士の恋愛沙汰など、人間くさい問題が次から次へ起こります。また1995年(平成7年)には阪神大震災が起こり、1日だけでしたが、有志でボランティアに参加したりしました。それらをひっくるめて真宗を学ぶのですから、今から振り返るととても貴重な時間でした。

学院での学びは、毎週月曜日の第1講目にある「歎異抄講義」が一つの核となっていました。今は亡き竹中智秀先生が話される1時間の講義を全文筆記して、その後、寮に帰って講義についてのミーティングをおこなっていました。この話し合いで気づかされることも多く、座談の大切さを感じました。さらに後日、ミーティングで話された内容について各班の代表が、全学院生・職員を前に発表し、それを承けて竹中智秀院長がまとめの講義をする攻究(こうきゅう)という時間もあり、かなり丁寧なカリキュラムだったと思います。

そのような前提で語られた、この「歎異抄講義」は、20年以上も前のものですが、まさに「現代に生きる仏教」と呼ぶにふさわしい内容で、いま読んでも古さを感じさせません。また学院の生活だけでなく、自坊のお寺へ帰ってから直面するであろう問題についても果敢に踏み込んでいます。僧侶だけでなく、在家の方が読まれても、真宗が何を問題にしているかを考える手掛かりになると思うので、これから少しずつアップしていこうと思っています。
なお、文責は鈴木知見ということでお願いします。m(_ _)m(2018年3月7日)


  1,我々はみな親鸞聖人より「御同朋よ」と呼びかけられ、「さあ、同一に念仏申そう」と勧められている者である。  
  2,我々はみな、「恐れ」と「罪」の問題をかかえて生きている者である。

  1,我々は皆、仏になろうと願っている。
  2,自力作善の人
  3,時機相応の教としての念仏
  4,念仏者=他力をたのみたてまるつ悪人

  1,外道鬼神を見破る力
  2,疑情を見破る力 ― 如来の誓願は真実である。けれども… から、だからこそ… へとの転成
  3,我々は誰なのか

  1,追善供養としての仏事
  2,報恩としての念仏相続の仏事

  1,財(経済)の問題(第十六章を中心として)
  2,神道(「流罪の文」を中心として)
  3,触穢の問題
  4,霊(=文化)の問題

  1,念仏者の危機と転機(第二章を中心として)
  2,なぜ念仏が必要なのか
  3,住立空中尊
  4,難治の三病 ― たすけられなければならない者とは
  5,称名念仏して往生していく浄土とは

  1,「何をなすか」と「如何になすか」との問題
  2,願生浄土の歩み(第九章を中心として)
  3,方便化土往生
  4,信心の行者と浄土・僧伽・国家・教団との関係

  1,いのちは誰のものか
  2,法蔵菩薩とは誰のことか
  3,我、無量寿を生きん
  4,常行大悲の生活
  5,如来の御恩を沙汰する(後序を中心として)
  6,同一の信心
    (1)個人に死んで「衆生の志願」に生きる
    (2)はじめに尊敬あり

(2018年6月8日 完成)



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