大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】③
恐れと罪の問題を抱えて、苦しみながら生きている我々は、地蔵菩薩とか観世音菩薩とかの菩薩たちに親しみを感じながら生きてもいる。地蔵菩薩のことを大悲闡堤(だいひせんだい)ともいう。闡堤とは仏法を否定する者のことで、仏(ぶつ)に成る、その仏種(ぶっしゅ)・仏性(ぶっしょう)が腐っているため、永遠に助からない者とされている。しかし地蔵菩薩は、この世の中で苦しんでいる者がいる限り、その者を見捨てないでその苦しみを共にして、共に助かっていこうと大悲心の故に敢えて助からない者となっていくのである。そのことから大悲闡堤と呼ばれている。
恐れと罪の問題を抱えて、苦しみながら生きている我々は、地蔵菩薩とか観世音菩薩とかの菩薩たちに親しみを感じながら生きてもいる。地蔵菩薩のことを大悲闡堤(だいひせんだい)ともいう。闡堤とは仏法を否定する者のことで、仏(ぶつ)に成る、その仏種(ぶっしゅ)・仏性(ぶっしょう)が腐っているため、永遠に助からない者とされている。しかし地蔵菩薩は、この世の中で苦しんでいる者がいる限り、その者を見捨てないでその苦しみを共にして、共に助かっていこうと大悲心の故に敢えて助からない者となっていくのである。そのことから大悲闡堤と呼ばれている。
また観世音菩薩のことを施無畏者(せむいしゃ)ともいう。世の中に畏れをもって生きている者があれば、その者の畏れを取り除いて、無畏の心を施すことによってその者を助けようとする。そのことから施無畏者と呼ばれている。
宮沢賢治に「雨ニモ負ケズ」の詩があるが、そこで賢治は
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
としながら、さらに
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
と続けているが、そこには観世音菩薩とか、地蔵菩薩とかに等しい菩薩の精神がよく示されている。
実は菩薩とは、「大慈悲心こそが真実である」として、自分も大慈悲心を学び、行ずることによって仏に成ろうと願いを立て、その願いに生きている者のことである。龍樹(りゅうじゅ)は、「世に四種の人あり」として、一、自利のみの人。二、利他のみの人。三、共利(ぐり)の人。四、不共利(ふぐり)の人を問題としている。我々は社会的存在として、縁のある人とお互いに関係しあいながら生きている。その時、お互いの関係はどうなっているのかがいつでも問題になるだろう。
一、の自利のみの人は、いつでも自分の都合を第一に考えながら生きていて、その都度、他人を犠牲にしている者のことである。そのため犠牲になっている人が事実いるため、本当にこれでよしと満足することができない人のことである。
二、の利他のみの人とは、自利のみの人とは逆に、他人のことを第一に考えながら自分を犠牲にして生きている者のことである。しかし自分が犠牲になっているという思いがあるため、やはり本当にこれでよしと満足することができない人のことである。
三、の共利の人とは、真実とは何か、そのことを第一に考えながら、その真実にしたがって生きることによって、他人を犠牲にするのでもなく、自分を犠牲にするのでもなく、自分も他人も共に助かっていくことができ、自利利他円満の生き方の出来る人のことである。仏とは、共利の人のことであり、自利利他円満に生きられる人のことである。それは真実そのものである大慈悲心によって初めて成就することになるから、仏のことを満足大悲の人ともいう。本当にこれでよしと満足することの出来ていく人のことである。
我々が仏の弟子となるというのは、そのような仏の弟子となって、仏の大慈悲心を学び、それをよく行ずる者となっていこうと願いを立てることである。皆の中にはすでに得度(とくど)を済ませている人もあるし、これから得度をする人もいると思う。得度とは、伝統的には善知識(よき人)より頂髪剃頌(ちょうはつていじゅ)といわれる
流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者
(三界の中を流転して 恩愛断つことあたわず 恩を棄て無為に入り 真実に恩を報いる者となれ)
によって願いをかけられながら頭を剃ってもらい、さらに
帰依仏 帰依法 帰依僧
と誓いを立てて僧になり、法名 釋の名になり、法名 釋◯◯を名告ることである。このことこそ我々が仏弟子となることなのであり、菩薩たちの仲間入りをすることである。このことを原点として我々は仏に成ろうとする仏弟子としての菩薩の歩みを始める。その時には、必ずいつでも自分の都合を第一と考えてしまう根深い恩愛(おんない)の心を思い知らされ、その心との死闘の中で仏弟子としての菩薩の歩みが展開することになる。念仏との出遇いは、その死闘の末にある。
《平成6年(1994年)4月25日》