大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】⑯
念仏者が曖昧にできない問題として、①財 ②神道 ③触穢 ④霊 の問題を具体的に見てきた。その時それらの問題の根に、共同体信仰として機能する国家神道(天皇制)の問題があることを見ることができた。この問題は我々に対して、1,日本人としての念仏者なのか(天皇の赤子)、2,念仏者としての日本人なのか(阿弥陀の一子地)を問うことにもなっている。その時、日本人としての念仏者となっていくのなら、そこには念仏者としての堕落の危機があり、念仏者としての日本人となっていくのなら、そこには国家権力なり日本人そのものから問題視される危機がある。(アカ=危険思想)
念仏者が曖昧にできない問題として、①財 ②神道 ③触穢 ④霊 の問題を具体的に見てきた。その時それらの問題の根に、共同体信仰として機能する国家神道(天皇制)の問題があることを見ることができた。この問題は我々に対して、1,日本人としての念仏者なのか(天皇の赤子)、2,念仏者としての日本人なのか(阿弥陀の一子地)を問うことにもなっている。その時、日本人としての念仏者となっていくのなら、そこには念仏者としての堕落の危機があり、念仏者としての日本人となっていくのなら、そこには国家権力なり日本人そのものから問題視される危機がある。(アカ=危険思想)
いずれにしても、念仏者として生きようとする限り、そういう二重の危機(法難)が起きてくる。それはこれまでも事実起きたことだし、これからも起きることである。親鸞聖人もそうであったが、蓮如上人もそのことを体験しながら苦労されている。
真宗門徒は、今でも還骨勤行のとき『白骨の御文』を拝読している。この「御文」は蓮如上人が、承元の法難の時、念仏者を死罪にし、流罪にし、吉水教団を解散させた後鳥羽上皇が作られた『無常講式』によって作られている。上皇はまた、鎌倉幕府と対立し承久の乱では隠岐に流され、その地で死去されている。その晩年『無常講式』を作り、その中で上皇は、①この身は無常の身であり ②煩悩の身である、そのことを告白し、さらに、③契(ちぎ)りても、なお契るべきは菩薩聖聚(ぼさつしょうじゅう)の友(念仏者)とし、④憑(たの)みても、なお憑むべきは弥陀の本誓の助けなり と讃嘆されている。
このことは後鳥羽上皇が、念仏者となって一生を終わられた事を示している。蓮如上人は、『無常講式』を通してその事実を見届けられていたし、真宗門徒は『白骨の御文』を通して、かつてはその事実を知っていた。なぜ念仏を誹謗し、念仏者を迫害した上皇が念仏者となることが出来たのか。
事実は『法然上人絵伝』を見ると、建永2年2月9日に未曾有の事件が起きている。それは安楽房たちが宮中において、後鳥羽上皇から念仏のことで直接追及されたことである。そのとき安楽房は、上皇に対し善導の『法事讃』の文を取り上げて、「念仏を誹ったり、念仏者を迫害する者は生盲闡堤(しょうもうせんだい)である。永遠に助からない。だから回心懺悔して念仏者となって欲しい」と深い願いを込めて呼びかけている。そのことが上皇を怒らせ、安楽房は直ちに斬首されている。承元の法難はその直後に起きることになる。安楽房の、この命懸けの念仏相続の事実が、後に上皇が念仏者となられる強縁となっている。
我々は如来の本願を聞き、善悪浄穢をえらばぬ本願の心に真実を見、その本願の心によって荘厳(しょうごん)される浄土に真実を見て、我々自身もその本願に帰して念仏者となり、浄土に生まれたいと願う。しかしそう願うことになってはじめて、我々が生活している世間が、また我々自身がいかに善悪浄穢をえらんでいるか、またそのことにどう関わるかによって我々の生活権までが左右されることを思い知らされることになる。
そういう中で、「如来の本願は真実であるけれども、しかし世間ではこの本願を信じていては、とても生活はできないだろう」と思い始める。そのため本願を疑う心が深まり、重大な転機が訪れて来ることになる。この時誰でも、①本願を捨てることになるか、それとも、②本願を疑うその罪の深さを善知識より思い知らされて、本願を信ずる信心をより堅固にしていくか、その岐路に立つ。これは三願転入の問題でもある。
実は、この問題に応えて説かれているのが『阿弥陀経』である。『阿弥陀経』は、「一切諸仏所護念経」とも言われている。諸仏たちが我々の信心を護念するために、本願の真実を、その浄土の真実を証誠(しょうじょう)しながら勧信されている。その経の最後は、
聞仏所説 歓喜信受 作礼而去
(仏の所説を聞きたまえて、歓喜し、信受して、礼を作して去りにき。)
と転機にある者が、その疑いを除かれて歓喜して世間のただ中へと立ち帰っていくことになっている。
実は安楽房は、『法事讃』のここの所を読み上げて上皇に念仏相続したのである、親鸞聖人もその弟子たちも、また蓮如上人もこの転機を何回となく体験されている。それは誰においても同じ事である。その時、我々の力ではその転機を乗り越えられない。ただ諸仏善知識を憶念することにより、諸仏善知識の護念によってのみ越えられる。
その諸仏の護念とは、法然上人が、①「この法の弘通は、人とどめんとすとも、法さらにとどまるべからず」と言い切り、②「我 たとい死刑に行わるるとも、このこと(念仏)言わざればあるべからず」と言い切られている、この二つのことに尽きている。それは本願念仏の仏法に対する突き抜けた信頼である。それと同時に、誰でも真実に生きたいと願っているものであると信頼しきることである。さらにその念仏を命懸けで相続された諸仏たちがおられる歴史的事実について、相続された諸仏たちがおられる歴史的事実についての深い信頼である。
蓮如上人は、後鳥羽上皇が一人の凡夫として念仏者になられた事をもって、上皇が本願念仏の仏法の真実をよく証明されている諸仏として見出されている。門徒も同じである。このことが念仏者にも勇気を与えている。この歴史的事実をまずよく知っておいてほしい。
《平成6年(1994年)10月11日》